事件で食べている人たちだらけ。
以前、きょうは事件は何もありません・・・というブログを書いたことがある。再録するとこうだ。
ニュースが何もない一日。
元号が変わって特番と特集ばかりの毎日で、ニュースだらけの社会であるが、何もない日があっってもいいのではと思うこのごろ。メディア関係者は一時、失業するかもしれない。とはいえ、彼らはどこかでニュースを探してきてつくる本能を持っている。
テレビは「きょうはニュースになるような事件は何もありませんから、静かに安心してお過ごしください。ではさようなら」。新聞も1面で「きょうは伝えることがありませんので、真っ白な紙面です。お悔み欄だけは〇〇面に収容しました。明日も何もなければ、きょうと同じ紙面になります」。
今日から見れば、これは異常な事態かもしれないが、想像をたくましくしていただければわかるけど、新聞発行される明治5年「東京日日新聞創刊」以前は、号外や立札や噂話で庶民は事足りていたのである。(ちなみに明治8年にすでに新聞の戸別宅配という制度を作っていた)
私のきょうの話はメディアがあると、事件は作られやすいということである。たぶん私は事件や事故や殺人やイベントや騒音や、そういう事柄がない静かな環境を無意識に欲しているのかもしれず、そうなら山の中に行って仙人にでもなればと言う人もいた。そういうことではなくて、十分、静かな日常は送れると思うのだが。日曜日に娘婿を迎えに新千歳空港へ行くが、人人人。
先日、美瑛と富良野へ撮影に行った友人からメールがきて、「自分たちが外国人ではないか」と錯覚するぐらいの国外観光客ラッシュだと。小樽へ行った別や友人も同じような内容のメールが来た。茹でトウモロコシが1本500円だとも。せいぜい高くても300円が相場。どうして小樽はこういう値付けを平気でするのだろうか?昔、寿司の値段を巡って作家か評論家が酷評して大問題になったばかりなのに、過去に学んでいないね。
きょうのテーマは「ニュースが何もない一日」だったね。そうか、動いてあちこち行くと、そこに人の波があって、私に耳と目と言葉があれば何かを目撃して、さらにメディアと接触したり、携帯やパソコンがあれば使ってしまう自分の感性や手段があって、自分はお喋りときているから、そもそも無理難題なテーマを掲げたに過ぎない。
けれども一日でもいい、殺人がない、自殺がない、せめて事故がない一日があってほしいと切に思う。私たちの感性が、そういうのは当たり前に起きることだよと当たり前に思うことが当たり前ではないのだということに気づきたいものだ。身近に防げるものには防いでいきましょう。NEWの複数形がNEWSか?せめて事件が複数から単数形になってくれればね。
日露戦争で偶然にも日本が勝って、その勝利に歓喜したのはいいが、次の目標を失ってしまった若者たちが「何か面白いことはないか」と彷徨する風景を石川啄木は「時代閉塞の状況」というエセイで書いていた。現代でいえば(どこか美味しい店はないか、楽しいイベントはしていないか)とネットで調べて走り回っている多くの人にも見られる。昔も今も、退屈は若者だけでなく、人間が根源的に持っている病気かもしれない。満腹した動物が無駄な動きをせず、じっと座ってるか寝ているのが生物として正しい生き方を、人間はどこかで狂ってしまったのかもしれない。文化や文明を作ってしまった。
坊主の孫。
今朝の朝刊一面も、トランプ氏日米安保条約見直し要求とか北朝鮮と会談とか、プーチン氏との会談北方領土は棚上げとか古いニュースばかりが並んでいます。昨日TVで報道していたニュースばかりです。違いは活字で残しているところです。同じ活字でもネットもありますから、議事録的なメディアになった新聞は、これまでの役目も薄れて来たのは事実ですね。では、何故新聞や雑誌は今も古いニュースを扱うのでしょうか。その答えは、今もそれなりに購読者がいるからですね。ニュースは一つのメディアを信じれば危険な面も多々ありますから、TVで知ろうが、ネットで知ろうが、その他のメディアでも知る事によって真相とは言えないまでも、真実に少しでも近づけるかも知れませんからね。
seto
ニュースで活字や映像になった時点ですべての事件は過去になります。終わったスポーツを何度も見るようなもので、過去のことです。そこへ詳しい解説なり、批評的な分析を加えるには相当の技量と知性がないとできなくて、でも視聴者はわかりやすく印象批評的な表現を好みます。複雑さは好みません。そこでMCが何でも印象批評と『正義』を語りだします。断定的に語られる正義は批評のしようがありません。これが何回も繰り返すうちにSNSでも同様の現象が起きます。これがブログ炎上や閉鎖につながります。この中に人種的な偏見やセクハラまがいパワハラまがい、最近は女性による男差別も後をたちません。男への復讐が始まってます、これまで植民地であった人たちが宗主国(ヨーロッパやアメリカ、過去の日本)への復讐の面も前面に出てきています。ざっといまの世界を眺めるとそういう図式に私は世の中が見えるのですが・・・。
昔の少年。
他人の不幸は蜜の味、とばかりにワイド番組などで、同じ穴のムジナ仲間のゴシップを徹底的に叩いていたタレントたちが、今度は叩かれ干される立場に。天に向かって唾を吐く例え通り、自身が潔白でも無い癖に他人様の足を引っ張り、挙句の果てには自分が足を引っ張られるコメンテーターたちが多いですね。正業に精出していれば良いものを、いつしか知識人よろしく雁首揃えてひな壇に収まり苦言をのたまう光景は滑稽でしかありませんね。専門家が専門知識を述べるのは良いのですが、専門分野外の者が如何にも聞きかじったような知識をひけらかしても化けの皮は直ぐに剥がれますね。事実らしきを伝えるニュースでさえ不十分ですが、さらに素人が尾ひれを付ければ視聴者に間違った情報提供にも成り兼ねませんね。食うがためでしょうが、他人の不幸を食べても「本当に美味しいんですか?」。
seto
『他人の不幸を食べて、本当に美味しいの?』の反語的な文章ですが、16世紀のモンテーニュという人のエセイにも同じ表現がありました。これはどうも人間の(ヨーロッパ的な人間たち?)本性に近いところに根ざしているようです。こういう意識が出てくるから日常の振る舞いには注意をしましましょう・・ということかもしれません。しかし、一方、同情心や相手にシンパシーを強く感じて、相手の不幸を自分の不幸のように感じる人たちも多くいることは救いといえば救いです。むしろどうしてこういう感情が醸成されるのかということです。ニューギニアの部族と20年以上暮らしたアメリカ人の本を読んでいて、他人の不幸を美味しいと思う人たちが果たしているのかどうか注意して読んで、後で報告ブログを書きます。