見慣れた地図

日本を北から逆さにする。裏日本は表玄関がよくわかる

裏日本は、日本の表玄関だった。(寄稿文)

「裏日本は表玄関だった」 最近はあまり使いませんが、かつては日本海側を裏日本という呼び方をしていました。けっこう失礼な言い方ですが、東京、大坂が太平洋に面しているためこんな言葉が生まれたのかもしれません。が、太平洋側が日本の表玄関になったのは、明治以降のこと。それまでは日本海側の、九州や福井の敦賀、新潟などが、中国やマカオ、マレーなどに対する日本の玄関でした。これらを結ぶ航路も発達していて、大坂などの荷主・船主が琵琶湖を使って敦賀に物品を運び、そこから新潟の船頭がいわゆる北前船を操船して、日本海沿岸各地を行き来していました。 江戸時代は船底が尖って外洋でも航行できる船は禁止されていて、船底が平らなものばかりでしたので、北前船もそれほど沖に出ることはなく、ずっと海岸線を見ながら航行していたと思われます。そして、次々に沿岸の港に立ち寄りながら、商品売って別なものを仕入れることを繰り返しながら北を目指しました。最後に東北地方で蝦夷地向けの商品を仕入れると、蝦夷地で昆布や毛皮などを仕入れて戻ってきました。富山、京都、沖縄などに東日本よりも昆布を食べる文化があるのは、昔から蝦夷地との交易が盛んだったことを示しています。 これに対して太平洋側では、江戸と大阪を結ぶ菱垣廻船の航路がありましたが、もちろんその先にアメリカがあることなど知りません。黒船のペリーでさえ、アメリカから太平洋を横断してきたのではなく、イギリスからヨーロッパ、アフリカ、喜望峰、インド、東南アジアを経て入ってきました。江戸時代にもあった南蛮貿易などの航路と同じです。途中の寄港地から幕府宛に入港を乞う書状を送っており、軍艦の艦隊であったため重要航路の日本海側や江戸、大坂を避けて、人気のない浦賀に入港させられました。もちろん監視付きで、少しでも航路を外れたら、4隻程度の艦隊はたちまち沈められたはずです。軍艦を率いて突然現れて開国を迫ったのではなく、おっかなびっくりで完全アウェーの日本に入ってきたというのが実情でしょう。その意味ではさすがアメリカ人は勇気があると思います。地図を見ると日米の中間点にハワイがあるように見えますが、これは地球の丸さが表現されてないため。まっすぐ行くには、北に向かってベーリング海峡近くを通ることになるためなかなかの難路で、航路が開かれるのはペリーより大分後のことになってしまいます。 さて、日本海側の航行ルートが最も活発だったのが、明治以降の蝦夷地開拓のための物流事業です。原野を切り開き、耕した土地に作物を植え、最初の収穫が得られるまでは、食べ物はもちろん、稲からできるムシロ一枚、縄1本ない状態なので、それまで何年もの間、開拓地での衣食住のすべてを本州各地から運び続けなければなりません。そこまでの財力があるかつての大大名家が、家臣団を蝦夷地へ入植させました。この時の北前船の船主が、現在の損保会社の前身です。 巨大物流網が稼働し、海外への表玄関だった日本海側こそ、明治時代まで表日本だったといえます。

  1. 国内の流通は昔も盛んだったようですね。叔父が敦賀で昆布店を営み加工職人をやっていましたから、幼い頃遊びに行ってその作業にじっと見とれていました。包丁のようなもの一本で長い昆布からカンナをかけるように見事なとろろ昆布を作っていました。北海道の昆布だと言っていました。それらの殆どは京都に卸していました。端物を沢山貰ったりして子供の頃おやつがわりにしていました。京都は食文化が盛んで、当時はまだ敦賀湾や若狭湾で捕れた魚介なども京都へ運ばれていました。北前船は福井の場合蟹漁なども盛んな越前海岸と京都に近い若狭湾の敦賀や小浜港に立ち寄ったのだと思います。戦時中は敦賀や小浜は軍港、今でも小浜や舞鶴には海上自衛隊の艦船が寄港しますが、現在ではフェリーが、船底にトラックの荷台を何台も載せて、かつての北前船の流通の肩代わりをしていますね。

    • 小樽や岩内の博物館、資料館には必ず北前船があります。日本の歴史にはまったく詳しくない筆者ですが、石器時代、縄文時代、続縄文時代、アイヌと和人の共生また戦争、松前藩の物流独占、津軽や奥羽との強い関わりなど再勉強を余儀なくされています。三内丸山も蝦夷地との交流があったかもしれませんね。

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