自分を見て欲しい、評価をしてほしい。
自分を見て欲しい、評価してほしい。
「私たちはパンだけでなく、バラも求めよう」(ウィリアム・モリス)。「暇と退屈の倫理学」(国分功一郎 朝日出版社)。人類の祖先たちは獲物を獲得したり、木の実をたっぷり集めたら、残りの時間をどうやって過ごしていたのだろうかと考えることがある。
サバンナで獲物を捕獲して食べた後、昼寝にいそしむライオンたちを見て「なんて充実した人生を送っているのだろうか」「あの満足感や自足感を漂わせている」「死ぬ時も抵抗なく静かに死んでいく。子供のライオンが他の動物に捕獲されて食べられても、まだ残ってる子供を連れてよそへ行く」シンプルで素敵な生き方だと感嘆するのは私だけだろうか?別に動物だけでなくて、庭のアリやブルーベリーの実を食べながら交尾するハチを見ていても、自然は凄いなと改めて思う。恥ずかしながら、若いときは花や植物に興味も薄かったのに、50代後半から花を愛でるようになった。
ツナギトンボも上空を飛びはじめ、台風接近ながら、独身のトンボは低空飛行で庭の竹の上に止まっている。そういえば独身のときにトンボを見て、早く結婚してツナギになって子供を作れよ・・と思ったこともある。しかし、人間と違って彼らは「自分を見てほしい」と思いながら生きていないのに感動する。
死が来たら黙ってそれに従い、周りから「ああだ、こうだ」と言わせない。熟過ぎて落下したベリーの実をスズメたちは取り合っている。芝刈りをしたら土から這い出す虫たちを食べにまたスズメがやってくる。私もスズメだったら、人間界の言葉も覚えず、学校へも行かず、試験もなく、就職もなく、年金がない代わりに親切にも鳥台を置いてくれる家もあり、水差しまで用意している家もあるからそこへ行けば生き易い。
庭で彼らが戯れてるときは、できるだけドアやカーテンを開けないよう気を遣う。食べて交尾して子孫を残すだけの営みだけど、こういう行為がアフリカやアマゾン、東南アジア、シベリア、アメリカ、ヨーロッパ、日本国中で毎日繰り広られてる。
テレビをつけると「私を見てくれ、私はこう思う、私の芸を見て評価して、私の作った新しい天気図を見てね、私のもの知り具合を心に留めてね、僕のホームランの凄さを見てくれ、どうだオリンピックのメダル見てくれ、これも皆さんのお蔭だ、息子の不祥事に足がふらつくお母さん女優etc」キリがない。鳥や虫や動物たちの「私を見てね」のない人生が素晴らしく思えるほど、他人の評価に毒された人生を送ってきたのかもしれない。さて、これからどうしたらいいのだろうか。
「暇と退屈の倫理学」が奥が深くて、再度感想を書く予定です。パスカルは人生すべて暇つぶしと皮肉ってます。ほとんどの哲学者は暇や退屈、倦怠について考察してます。(部屋でじっとできない人間の性<さが>なんでしょうか)。退屈の解消としてレジャー産業や仕事が存在するともいえる。
デザイナー
油彩を始めた若い頃でした。その頃は、仕事の環境も絵に関係していたので豪華な資料本や展覧会などを見る機会も多く、師匠の父親が横浜の画商であった関係で、巨匠たちの作品を直に見せてもらったり、仕事場の大きなデスクの前には里見勝三画伯の巨大な裸婦のキャンバスも架けられていて、自分でも下手なりに描くようになって、いつかゴーギャンになりたいと思ったものです。思うままにタヒチで営む彼の生き様は憧れでしたが、歳をとるごとに絵画からも離れ、食べて暮らすための商業デザインの世界に没頭するようになりました。束縛の無い環境で暮らせたらどんなに快適だろうと思っては見たものの、結局現実からは逃避できませんでした。でも、歳を取った今でも、心の片隅にゴーギャンは居ますね。
seto
身近にそういう画家志望のご夫婦いますよ。若いときは本人の話では名の売れた画家でしたが、本格的な画家を目指して奥様とパリへ行きました。渡航費用は父親から400万円を借りて行ったそうですが、挫折して帰国。広告代理店の営業をしながらいまも暮らしていますが、父親が亡くなって、若いときの渡航費用分を毎月返して兄弟間の遺産分与に充てているそうで、死ぬまで働かないといけないと言ってました。画家って暮らしが大変だと思います。画材も高いし。ゴーギャンの本物は見たことがありませんね。
坊主の孫。
評価は他人や社会が勝手にするもので、自分から求めてはいけないでしょうね。山に迷い込んだ幼い子の人命救助をしたあのボランティアお爺さんのように。彼はそれだけではなく自費で軽のクルマで全国どこへでも行って災害支援をしたりしていますね。あんな人になれるかと言えば、到底ムリでしょう。彼は評価を求めていないし、報酬も求めていないのです。僅かな年金暮らしの中で文句をいいながら生きる人が多い中で、黙々と行動するねじり鉢巻のお爺さんに「退屈しのぎ」とか「暇人」とは誰も言えませんね。オリンピックや叙勲もいいですが、警察や消防さえ探せなかった山中で幼児を探し救助したあの方にこそ、勲章や金メダルをあげたいものですね。
seto
もう勲章制度廃止したほうが、時代にマッチしていると思いますよ。人間、死にかかっても最後に欲しがるのは名誉らいいいです。究極の見栄ですね。死んだ後も自分の名誉が残るよう突然、本を書きだしたり、遺言と称して書いて印税を妻と子どもたちへ残して、それで基金に名前を残す人もいます。記念館をつくる人もいました。銅像を建てる人もいます。北朝鮮が巨大銅像を建てる技術が最高らしいですよ。現在、アフリカの独裁国で銅像を建立する人たちを派遣しています。さすがの外貨稼ぎです。困ってる人がいたら助ける、それだけのことをたんたんとしていきたいですね。ゴミが落ちていたら街中でも拾い、ゴミ箱に捨てるでもいいと思います。歩道が困っていると考えると、歩道を助けることになりますね(笑い)。
昔の少年。
都会暮らしがスタンダードと考えられるようになって久しいですが、郊外に行けば、定年後の夫婦らしき人たちが汗をして菜園の作業をしています。かつては田舎暮らしの経験者なのでしょうか。僕も田舎で育ったので、やれそうな気もしますが、太陽の下で無心に働く彼ら彼女らに暇?と言えば叱られるかも知れませんが、時間が作れません。でも、農作業風景は遠い昔を思い出して和みますね。都会のアスファルトやコンクリートに囲まれて暮らすサラリーマンも働いて給料で暮らす形には変わりないかも知れませんが、土にまみれながらの食料の自給自足は人間本来の姿ですね。
seto
近所で軽トラ買って、野菜をどっさり積んで、借地農園から秋になると運んくる75歳の人がいます。ご主人だけが野菜つくりをしていて、近所の子供たち夫婦へせっせと運んでいます。困ったことがあると私は彼に相談に行きます。先日も芝刈り機の回転ビニールが詰まって動かなくなり相談へ。直してくれました。何か誰かの役に立てないか毎日考えて暮らしている貴重な人です。こういう男の人たちは彼に限らず多い。しかし、どこか家で孤立しています。外で役に立ちたいという思いが強くなるのでしょう。