黒澤明自伝「蝦蟇(がま)の油」より・検閲官。
黒澤明自伝『蝦蟇(がま)の油』より・検閲官
ここは彼の声まで聞こえる文章を引用するしかない。
「戦時下の日本の言論は、日ごとに窮屈になり、私の書いた脚本も、会社の企画に取り上げられても、内務省の検閲で撥ね付けられた。検閲官の見解は、絶対であって、反論は許されなかった・・・反論には何かというと米英的である、ときめつけて、反論には、感情的になって権力をふるった・・・・。サンパギタの花という脚本でフィリピンの娘の誕生日を祝うシーンを米英的だといって私を詰問してきた。・・・私は天長節という天皇誕生日を祝うことしてるじゃないですか。あれも米英的ですか?検閲官は真っ蒼になった。そのシナリオは葬られた。・・・・当時の内務省の検閲官は、みんな、精神異常者のように思われた。彼らはみんな、被害妄想、加虐性、嗜虐性、色情狂的な性向の持ち主だった。・・・たとえば、(勤労動員の学生たちを、工場の門は胸をひろげて待っている)と書いても猥褻だと言う。なぜなら、彼らは門という字で、陰門を想像したのだから。色情狂は、なんにでも、劣情を感じる。・・・まさに天才的な色情性というほかはない。それにしても、検閲官というドーベルマンは、時の権力に、よくも飼い馴らされたものだ。時の権力に飼い馴らされた木っ端役人ほど怖い者はいない。ナチズムにしても勿論ヒットラーは狂人だが、ヒムラーやアイヒマンを考えても解るように、下部組織に至るほど天才的な狂人が輩出する。それが、強制収容所の所長や看守に至ると、想像を絶した狂人になる。戦時中の内務省の検閲官は、その一例だろう。彼らこそ、檻の中に収容すべき人間である」黒澤明の激越な文章である。
「彼等のことを思い出すと、思わず身体が震えてくる」黒澤明は、自分の脳は脳血管が異常に屈折していて真性癲癇症だと。子供のときもひきつけをよく起こした。癇癪持ちなのはそんなところにも原因があるが、検閲官への恨み・憎悪は凄い。(長い話・・p251~253)
この自伝では、軍人のお父さんの厳しいしつけについて、弱虫・泣き虫の子供の頃、必ず助けてくれた4歳上の兄のこと。4男4女の一番下に生まれた黒澤少年の生い立ちが、関東大震災の風景、徴兵の検査のとき貧弱な肉体と検査官がたまたまお父さんの部下だった幸運もあり兵役免除されたこと、小さなときから映画を山のように見たこと、その思い出すままに映画名が出てくるが初めて聞く映画ばかり。さらに兄の住んでいた下町長屋で、そこに暮らす人々と接しながら「まるでここは落語の世界ではないか」と思わせた。山の手育ちの黒澤明をびっくりさせた。
天才的に頭の良かった、東京府下で一番の成績の兄が進学に失敗(たぶん面接のときのその態度に不合格になったと推理している)し、映画館に雇われる説明士(弁士)になり、自由に弟に的確にいい映画をチョイスして鑑賞させ、黒澤少年の映画感性の下地を作ってくれたことである。
しかし、時代は無声からトーキーへ。弁士の仕事が少なくなってくる。組合の委員長をやらされて悩み、27歳で自殺する兄への感謝は並大抵ではない。黒澤青年23歳のときの事件だ。映画界に入るのが26歳。小学時代、いじめられていたときも、必ずやってきて彼を守ってくれた。
この「蝦蟇の油」は、シナリオを書くように必死に書いているのが伝わってくる。
それと恩師山本嘉次郎さんへの尽きることのない感謝である。映画作りで細部にこだわること、音楽は控えめにすること、俳優の動かし方も山本監督を見ていて学んだ、映画をつくるときに一番肝心は、助監督選びだと。現場を任せるわけだから。任せる人を間違えると映画は台無し。企業にすれば倒産を招きかねない。
「私は言葉こそうまく喋れないが、世界中のどこの国へ行っても違和感も感じないから、私の故郷は地球と思っている。世界の人間がみんなそう思えば、いま、世界に起こっている馬鹿なことは、ほんとうに馬鹿なことだと気が付いてやめるだろう」(127p)地球でさえ狭く感じる感性を持っている黒澤だから「世界虫」みたいな人。世界中の映画監督から尊敬されていたわけだ。虫だから地を這う視点も当然持っている。
J・ルーカス、F・フォード・コッポラ、スピルバーグ、マーティン・スコッテセン。地上や地下からも、地球外からも視点を移動して物を考えられ、映画を作れる。
「人間の奥底には、何が棲んでいるのだろう。その後(自分の悪口を言い触らし結婚を邪魔した男について書いた後)、私は、いろんな人間を見てきた。詐欺師、金の亡者、剽窃者・・・。しかし、みんな、人間の顔をしているから困る。いや、そういう奴に限って、とてもいい顔をして、とてもいい事を言うから困る」(295p)。
モーツアルトのピアノを弾くナチスの高官が同時にユダヤ人の囚人を窓から撃ち殺すシーンを描いた「シンドラーのリスト」のワンシーンを思い出す。私にとっていい人は他人にとって悪人的な存在、むしろこちらの方が多いかもしれない。奥さんや子供にとっていい旦那が実は会社では過酷なリストラをしていて、憎まれる存在であったり、会社で有能な仕事をする人間が、家庭では居場所のない余計者あったりするケースの方が多いように思う。