そこに行かないと買えない・・・価値。
そこに行かないと買えない・・価値
大分豊後(ぶんご)高田市に「昭和の街」があってそこでしか売られていないおばあちゃんの漬物だ。中津に住む娘が我が家へ帰宅する折り、必ず買いにいく商品で、多めに買って近所へもおすそ分けをして喜ばれている。通販で買えないというところが味噌だ(商品も麦味噌漬け)。新聞もテレビもチラシでもそうだが、パソコンを開けると、通販商品のオンパレードだ。
しかし、そういう世の中であっても、そこに行かないと買えない(食べれない・会えない)ものがある。それは必然的に移動を促すものだ。買うために、食べるために、会うために。注文したら、宅配業者が届けてくれるというものではない。自分がそこへ行かないとダメなのだ。必死になって。エネルギーが要る、それを獲得するために商品価値(値段)以上の、犠牲(ガソリン代・交通費)を払いながら行かないといけない。
ネット時代に逆行するけれども(猫も杓子も通販で運転手不足を来している運輸業界)、車もなく歩いていけないご老人ならともかく。北海道なら、わざわざ、オーストラリアからニセコのさらさら雪を求めてスキーやボードを担いでやってくる。ニセコ生まれの私の父は草葉の陰で苦笑しているだろう。歩くスキーで小学校へ通い、冬は大嫌いだった。その同じ雪が、今度は商品に変わってしまったのだ。ハワイの波に乗りたい、陽光を浴びたい、空気を吸いたいために飛行機に乗っていく人もある。「ハワイは最高だよ」。
男女の交際もそうで(あたりまえ)、会うために約束の場所へお互い移動しなければいけない。たぶん、豊後高田の漬物も、昔からおばあちゃんが、彼女のお母さんから、そのまたおばあちゃんから伝わった漬物かもしれない。すべてに共通するのは、我々の五感が、直接そのものに触れて、喜びを享受するということだ。しかも、会いにいくためにそのプロセスでドキドキ感が高揚するかもしれない。イマジネーションも働く。
お盆やお正月に,帰省する最大のメリットは、生の声を聞くために、肌の接触を求めた大移動なのだ。親以上に同級生やたくさんの友人たちとも。言葉の直接性や、買ったお土産の手渡し。そのときの相手の笑顔を思い浮かべて買う。そこまで行かないと会えない数々の人がいる。兄弟もいる。本音が飛びかう貴重な時間と空間。久しぶりに会った大学の同級生と居酒屋で飲みながら、そんなことを考えていた。彼に会うために行った街中で、途中、たくさんの知り合いとも会え、お喋りもできた。歩けばハプニングが待っている。ハプニングの連続だ。「お前、やせたな」「顔色が悪いぞ」「何か心配事でもあるのか」「えっ、あいつが会社を辞めたって?」。時間が生きている、躍動している。引きこもってる暇はないのだ。自分の五感を生かすために。
広告マン。
そこに行かなければ買えない。つまりここへ来なければ売らない。と言う強気な商売ですね。採算から考えればその方がリスクも無く効率的ですね。昨今の通販のように届いたら、思っていたものと違うと言う訳で即返却の繰り返し。それも立派なカタログまでつけてきますから?一体?どうして成り立って居るのだろうかと疑いたくなりますね。多分泣き寝入りを見込んでの商売だと思いますね。ネットで見て注文の危険性は承知している筈なのに、つい買ってしまう心理をついているのでしょう。その点、直に現物を確かめて納得して買ってもらう商売には返品なんてありませんね。どんなビジネスでもそうですが、金儲けが先か?中身が先か?の選択の違いですね。少量生産の方が間違いのないブランドを確立できますね。
seto
アマゾンでは私は3回ほど購買履歴がある程度で、通販はほとんど利用しません。クレジットカード番号を教えたくないので、これからのキャシュレス時代には不適応の人間です。便利さに一度入ると、出て来れなくなるからです。「本当にこれって買う必要があるの?」と自問すると「いま必要ないね」となります。それより、お店に行って発見の旅が楽しいです。先日買った「首切り役人の日記」というレア本は16世紀に書いた実際の日記でしたから狂喜しました。調べるとアマゾンにもありましたが、最初から発見できるわけではなくて、まずは自分の足で見つける喜びにかないませんね。古い人間です。