あの人はあの人自身を一緒に持ってでかけた(ソクラテス)
誰かがソクラテスに向かって、誰それは旅をしても少しも良くなっていない、と言うと、『そうだろうとも。あの人はあの人自身を一緒に持って出かけたのだから』と言った。(モンテニュー『エセー2巻 52p』岩波ワイド版)旅をすれば少しは人間性が良くなるという思考習慣がギリシャ時代にあったのかもしれないが、どこへ行こうが、自分を脱ぐことができないとソクラテスは言っている。『孤独について』の項目に引用されている。『ところで、孤独の目的はただ一つ、すなわち、もっと悠々と安楽に生きることであると思う』(51p、モンテーニュ)。孤独の強みはどんな大集団にいようが、ひとりだろうが自分を見失わないことで、それは異国にいても旅先でも同じこと。しかし、私はここになぜそういう自身を失わない営みができるのかと考える。大学時代に一人旅ばかりしてきた私は、何度もお喋りしたくなったこともある。旅をしてきた目的は、私が住みたい街がどこか本州にあるのかどうか探していたのである。金沢が第一の候補の町であった。しかし、モンテーニュに言わせると、どこの街に住んでも、私は私の身体を運んでいるので『札幌での私と金沢での私はそんなに変わらないよ』というのが正解である。ということは敢えて住む場所を決めてからそこで仕事を探すことも必要ないというわけだ。前職で東京でストーカー事件を起こした人が懲らしめに札幌へ転勤してきたが、やはり昼間から特定の女性を追いかける事件を札幌でも起こした。しかし、こうなると上司からの『教育指導』や『説教』って、社会人に意味があるのかどうかとさえ思う。『転勤してもあの人はあの人自身を一緒に持って出かけた』。孤独の意味がここまできたらぼんやりイメージが沸いてくる。どこにいても自分を失わないという人はべたつかず、誰とも適当な距離を設けられる達人のような教養人であるだろうということ。難しい!!そもそも教養って何だろう?私の周りにそんなお手本のような人がいただろうか?青臭い悩みをいまだに抱えている私である。モンテーニユが凄いのは、インディアンについても彼らは私たちと同じ人間であろうと断定しているところで17世紀、ヨーロッパがカリブ海やユカタン半島、南米で沢山の現地人を殺戮している事実を知り、クリスチャンでありながらきちんと批判をしているところである。現代でもこういう目を持っている人は実は少ない。それどころか、あの人が行くところで必ずうつ病患者が出るという、上司と部下の関係も全国各地にある。前職でフロア30人で4名のうつ病者が出た。原因は社長の無意識(意識的?)のパワハラである。社長が前の会社でされたパワハラを子会社でしていた。江戸の仇を札幌で。被害者は簡単に加害者に変貌する。
流浪の民
特に孤独になりたいと思ったわけでも無く、ただ別の土地に行きたかったのは、これまでのしがらみを断ち切ってしまいたかったのです。べたべたといつまでもくっ付いて自分の真似ばかりする後輩や、裏切られた?彼女や、嫌な人間関係や、その土地特有の慣習や、言葉使いや、ずるい人間性などを沢山見たり経験したりすると心機一転、全く別の環境に身を置きたくなるのです。親戚も無い、兄弟姉妹も居ない、友達も居ない場所は自分の存在そのものや価値の薄さに気づかせてもくれます。ですから何も気にせずに、ゼロからのスタートができるのです。
seto
偶然、一昨日、ホリエモンの『ゼロ』という自分のおいたちから40歳までの人生を語った本を読んだところでした。ホリエモン、さびしがり屋のいいやつでしたね。感動した本になりました。それこそしがらみを断ち切るように東京で出ます、そこからまた事件が次々起きます。書名のゼロはスタート地点で、人生掛け算ではなくてゼロに一を積み上げる繰り返しをすれば自信ができるとも語ってました。泣きじゃくる孤独や寂しさに襲われるシーンもありましたよ。いい男です。
昔の少年。
大阪から東京経由で札幌に来ましたが、ゆくゆくは生まれ故郷の東京か、大阪時代にブラブラ歩きをした京都に住みたい。と言うより、京都で仕事がしたかったのですが、寒い冬の札幌に来て数カ月で、その夢も亡くなりました。全国どこでも暮らせる自信はありましたが、仕事となれば、どこかに落ち着くしかありません。仕事の種類によっては、どうしてもと言う土地はあるかも知れませんが、どこでもできる仕事ならば、別に京都でなくてもいい訳です。そんな訳で京都行きは止めて札幌に永住を決めました。
seto
私は住むなら金沢とは決めてましたが、京都の私大に合格して錦市場横の下宿を月6000円で借りることにしました。2月の京都は寒くて心細くなったのを覚えています。トイレなく風呂もなく、あるのはタタミ6畳。札幌の大学に入り、京都行きは断念しましたが。いまでもあそこで暮らしたらどんな人生を送っていたのか想像もできません。きっと大学を途中で辞めてフーテンを続けていただろうとは想像します。人生、偶然、偶然、偶然の集合体で、意味づけするためにストーリーを書いているだけかもしれませんね。
北の旅人
誰にも干渉されずに自由奔放に振舞えるのが旅なんでしょうね。そんな姿が、実は自分自身の本当に有りたい理想の姿なのでしょう。しかし、現実の環境下では規則やしきたりや常識とかに縛られて我慢している分が旅先で開放されるのですね。でも一生、旅を続けることは殆ど不可能でしょうから、また元の現実に引き戻されますから、また、繰り返し、旅に出たいと思うのでしょう。つまり、こんな繰り返しなんでしょう。抑圧された世界からの一時逃避ですよね。そう考えると、旅をしない人は?日常で不満を余り感じていないのかと思ってしまいますが、経済的な理由や、仕事の都合で旅をあきらめているケースも多いのでしょう。旅は道連れなどと言いますが、本当の旅は独りにかぎりますね。
seto
旅は一人ですね。相手がいると妻でも邪魔です。たとえば博物館でも美術館でもひとりがサイコー。好きなところで好きなだけ見て・読んでのんびり心の自由を堪能できるわけですから。それは相手もそうですね。夫婦で旅する人多いですが、ほぼ家庭の延長ですね。旦那の都合で身の回りの世話を奥さんにさせるのでしょうか?孤独にならないと自分が磨かれませんね。そういう志向のない人は別ですが。夫婦二人旅を見ていると、奥さんあんまり楽しそうではありません。女同士、奥さん同士のほうが何倍も楽しそうです。私も含めて仕事や人事話以外の会話が下手ですね、男は。愚痴を言わない男も稀ですし。どこまでもつまらない自分を背負ってますから定年後もイキイキ生きられない人が周りに山のようにいます。