倫理学を習っていたときに、役割自己という概念がった。ひとりの人が場面場面で果たす役割があってそれを束ねてひとりの自己があるような話であった。家では家長や親父、父親、夫、親と同居していれば息子、自宅周辺ではおっさん、隣の旦那、町内会班長、会社に出れば営業課長、○○の社員、通勤途上では単なる通勤客、会社員男、居酒屋ではお客、飛行機で観光地でも行けば観光客、車を運転すればドライバー、中学の知人から見たら同級生、私のブログを読む人はブロガーと言うかもしれないが、いろいろな空間において私は体を置く場所で私の名称が変わる。役割自己は、この場面のあれこれでそれに適った振る舞いを求められる(はず)。

一世を風靡した言葉に(今も使われるのか?)アイデンティティーがある。こういうすべての役割を束ねる私の私性を担保するのがアイデンティティーだとすれば、本当にそんなものがあるのかという疑問である。もともとないものを探しに『私を探しに海外まで行った人が実に多い時代があった。今でもいるかもしれない』。私は税金を納めるとき、履歴書を書くとき、受験するときに自分の名前を書く、それと混同しないで欲しいのだが、根本的に自分ってあるの?である。無理につくる自分はいる、

『こんな本を読んでいる、こんな料理大好き、こんな人が好きなの、お洒落は絶対これね、スポーツマンはこの人、歌手はこの人、俳優はこの人、映画はこれ絶対いい・・、私の知り合いにこんな大物・有名人いるのよ』、そうなんだろうけれど、それが無くてもひょっとして何も困らないかもしれない。この人が田中一郎さんだとしよう。すべての好みを削ってもなお残る田中さんの自己本質って何?初めにアイデンティーと書いたが田中さんのアイデンティーは無いといえないか。個人は関係性の中でしか生きられないということを私は言っている、たえず他人を前提にして日々を生きる、自分のために自分で生きるほどつまらない退屈な日常はないかもしれない。

要は場面場面で生きる、ジャズでいうアドリブで日々生きていると考えれば、『私という人間の原則はこうであるからこうしなくては』と頑迷になることもない。このアドリブ的な人生観が、これから世界中、どこへ行って暮らしても通用する人間観のような気がするがどうだろうか。一神教の原理主義を超える、多様性が尊重される(はず)の世界であるはずであるから。個人を分人と言い換えれば即興的に反応して生きるのが見える言葉だ。個人という概念の発生はヨーロッパ中世史研究者では12世紀とされる。それまではギルド(職能組合)に属して生涯をその中で送った。日本でも個人は明治時代の翻訳語で新しい。江戸時代は世間で、その中に人が生きていた。世間には圧倒的な影響力があったし、いまもある。個人であり続けようとして孤立している人も横のつながりを求めようとするのも、実は関係の中でしかない生きられない私たちだからだ。別にこれはこの国特有のことでもなくて、一神教なら彼らは個人で屹立しているように見えて後ろに『神』を持っているから、やはり関係性の中に生きているというわけだ。人間は動物の中で弱い生き物だ。なので仲間と暮らさないとほかの猛獣に殺されてしまう。原初から関係性がないと生きられなかった。

  1. お正月とは言え、歳は取りたくないですね。

    自分は、一体どう見られているのか?と考える人は少ないのではないでしょうか。なぜなら、鏡を見るとき以外にじぶんを冷静に見る事はほとんど無いからです。見えていないのに如何にも自分を見て知っているかのように振舞ってしまいますね。豚もおだてりゃ木に登るなんて例えもあるように、自分は老齢化の仲間入りをしている爺さんなのに、まだまだ若いなどとおだてられたりすれば、たちまちその気になってカラ元気にもなります。全く自分を分析できていないのは事実ですね。自分は誰よりも優秀だとか、何々だけは誰にも負けないとか、ともすれば上から目線にもなりがちですね。今年は、自分を冷静に見て少しは謙虚に生きなければと思います。

    • 自分って、あるようでいて誰かからの自分へのイメージを演じているだけかもしれませんね。これは人種や民族には関係なく、人間に植えつけられたのかもしれません。最初はもちろん家族、それも親からでしょう。子供を見れば親がわかるというのは恐ろしいけれど半分、本当だと思います。個人は親の二分の一とでもいいますか・・。

  2. きっと、これまでの長い間には、多少は誰かの為にはなっていたのでしょうね。その反面、誰か大勢の人たちのお蔭で現在があるのでしょう。他人にとっての自分は、その人たち夫々には違って見えていたのでしょうね。個人に戻れば、冷静に見て、まるで多重人格者ですね。例えるなら、その場その場で何かを演じている役者の様なのかも知れません。簡単な例が、自宅の自分と、仕事上の自分は、ハッキリ住み分けていますよね。その変化形を沢山持ちあわせているのが個人なのでしょう。考えてみれば、その場その場で切り替えるなんて器用ですよね。でも、一カ所で動き回らずに生きていれば、また変わるのでしょうが、私などは動き廻り過ぎですから、まるで、七変化どころか?二十一面相か?みたいですかね。個人と言うより多人?。

    • 多重人格が普通でしょうね。それを無理に統一しようとして、穴に落ちてしまい、自分探しという無駄な時間とお金を浪費して旅行代理店を潤すわけです。自分探しなら、親に聞くのが一番間違いありません。『私ってどういう人?』すぐに教えてくれますよ。だっておむつを替えてくれたのですからね。

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