千歳に米軍基地があったとき・・・。シングル・グランドマザー。
昨日に続き、千歳空港の話だ。1945年(昭和20年)日本敗戦を受けて、9月から日本海軍の千歳飛行場が米軍に接収され、キャンプ千歳として、兵舎も作られた。その後、朝鮮への派兵もにらみ、アメリカ本土オクラホマ州から1万2千名の歩兵師団がやってきた。
沖縄でもそうだけれど、兵士と日本の女性との間で子供もたくさんできた。私の通った札幌の中学のクラスに2名、親がアメリカ兵の子供がいた。どちらも祖母が育てていた。お母さんはいない。1953年、朝鮮戦争の休戦と同時に米本土へ父親たちは帰って行った。子どもを生んで、その子はおばあちゃんに育てられた。母親はいずこへ?
シングル・マザーならぬシングル・グランドマザーだ。担任の家庭訪問日を迎えたある日、おばあちゃんは「先生に座ってもらう座布団がない」と近所の人に相談した。「これを使って」と近所の人たちは両親がいない子供の事情も知ってもいて、快く座布団を貸してくれたそうだ。彼女は中学を卒業すると理美容学校へ通い、伴侶を見つけ、いまは鉄筋コンクリート3階の自宅兼店舗を持つまでになった。
中学時代もイジメにも会わず、楽しい中学生活を送れて、彼女は30年にわたってクラス会の幹事を引き受けていた。「ここまでこれたのも、クラスメートのお蔭なので、せめてクラス会の幹事を引き受けて恩返しをしたい」と言っていた。
もう一人の男の方は身長が180センチ、モデル系の美男子でやはりおばあちゃんに育てられていた。しかし、学生ズボンの足の内側に登山ナイフをたえず入れ、ちらつかせていた。バスケットボールが抜群に上手なやつだった。中学を卒業すると、青森の三沢にいるという噂が流れた。また、テレビゲーム機での換金行為でムショに入ったという噂も流れたが、どちらにしろ、彼が札幌に戻ったら彼のためにクラス会をしようということになった。率先したのは、同じ境遇の彼女だった。
その彼がしばらくして現れた。すぐにクラス会が開催された。久しぶりに会う彼にビールを継ぎに行くと、おやっ薬指と中指が真ん中で切れてる。「どうした、指?」「機械に挟まれてさ」。そうならいいけれど。暴力団には入って欲しくないからね。それでも聞くだけでこちらの指が痛くなる。去年から中学のクラス会の幹事を筆者が引き受けている、彼女のお蔭でここまで続いたクラス会だ。
担任が去年のクラス会で「教員人生で、こんなに良く集まり、楽しいクラスを担任できて、教員冥利に尽きる」と挨拶された。千歳の米軍基地から、子供が生まれて、その子供が育っていった話である。
昔の少年
占領され進駐軍が好き放題に過ごして立ち去った後も、彼らの残した傷はあちこちに見られましたね。僕達には詳しくは語られていない敗戦以前の日本軍も似たような傷をあちこちに残しているのでしょうね。その一部が今も「慰安婦」などの問題として尾を引いていますね。現代の日本では某スケート選手などのシングル・マザーの美談もありますが、実際にはシングル・ファザーの悲劇が多くなって来ました。知り合いの家族にも、僕の身内もそうです。女性の社会進出がこれまでの家庭の形を変えました。個人差はありますが敗戦後70年の日本では、「自由」(はき違えた言論の自由?と、はき違えた恋愛の自由?)が家庭崩壊にもつながっているのではないかと思います。シングル・ファザーは当然ながら仕事を持ち不器用ですから子供たちすべての面倒を見れません。従って祖父・祖母が親代わりとして面倒を見て教育することになります。別れた両親に対して恨みもせず、子供達はすくすく育ち、同居していない時々会う母親に対してもこれまで以上の接し方をします。罪の無い現代っ子たちは祖父・祖母・別れた両親たちも皆んな家族なのでしょうから。いずれにせよ将来は自分たちの力で逞しく独り立ちして生きて行かなければいけない人生ですから周囲の大人たちは、自らの経験から出来るだけ生きる術を身につけさせてあげる事でしょうね。環境は人を善くも悪くも変えますから。社会に出れば頼れるのは自分だけ、過去の恨み辛み泣き言など一切通用しませんからね。