1月初めに大事な手袋をどこかに落としてしまった。冬は物忘れの季節。これまでマフラー・手袋は数知れず落としてきた。さすが寛容な妻も『いいかげんにしなさい。手袋は紐で首から吊るしたら』。しかし、私は『失くしていないよ、地上のどこかにあるよ、いま、ここにはないだけで、家の中に隠れているか、ほかのところにあるよ。カッカしたらストレス溜まって損するよ』。この返事をして我ながらいい反応をしたものだと思った次第なので紹介した。何でも『いま手元に無いものは地上のどこかにある、必ずある、100%ある』と思えば悩みやパニックは半減する。スマホやカード類でもなく、実損しないものはたとえ落としても仕方がないとあきらめがつく。思い出の品々も贈った人のほうが、もらって失くした人よりショックが大きいと聞いているが本当だろうか?お金と労力(手編みのマフラーや手袋ならば、その思いも含めて)をかけているから、頭にきちゃう。でも失くしたものはしょうがない。願わくは拾って誰かが有効に使ってくれてれば、手袋冥利に尽きるというものだ。しかし、こんな理屈ばかりだと仕事はどうなる。プレゼンテーションで仕事捕獲失敗しても『どこかが仕事をもらって、その周辺の人たちの暮らしを支えていると思えばいいわな』なんてのんきなことを言うと営業敗北の烙印を押される。大切なお金にしても『自分にはないけれど、誰かが自分の分も持っていて、教育費とかで有効に使っているはず。』と思い込めば自分の貧乏も許せる、余裕の気持ちになるというものだ。負け惜しみだけど。『地上のどこかにあるはずだ』論理を人にたとえれば、古典的な格言ではあるが『フィアンセ』だったりする。『どこかで私を待ってる人がいる』(竹内まりや)ってね。しかし、人の命はそうはいかない。天国やあの世を信じている人ならば緩和されるが(緩和するためにあの世や天国がつくられたのかもしれない)、絶対的な不在である。この絶対的な不在は心が痛い。何年たっても薄れない。自分の両親の死より、不謹慎かもしれないが愛犬の13歳での死は悲痛であった。

  1. 大抵は自分のせい。

    最近よく忘れ物をします。落とし物と同じですね。先日などは扉の無い車庫で、ルーフに伝票とスマホを置いたまま8階のオフイスで十分仕事をして戻って初めて気づいたなんて事もありました。無くなっていても仕方が無い状態ですね。以前には財布が無いと大騒ぎして、出勤前に立ち寄ったコンビニの駐車場に落としていないか?とコンビニに電話して、警察に落とし物届けを出し、その後ですべてのカード会社に電話で使用できない手続きを終えて、あきらめて車に戻り、シートベルトを掛けようとした途端・指先が何か触れ、確かめると何とシートとコンソールの隙間に財布が。誰のせいでも無く自分の仕業でした。

    • 私は携帯電話がなくなり,何度も何度も大騒ぎです。しかし、不思議と出てきます。先日もなくして自宅電話を使い呼び出すとスーツの内ポケットから鳴りました。ボケ進行中です。阿部公房の「壁」に自分の名前を失う話があります。いずれそんな事態になり得る私です。そのときはよろしく私の名前を思い出してください。

  2. しばらく会わない人の名前は忘れますね。今ではせいぜい1年が限度で、それ以上会わなかった人の名は忘れやすいです。余程の特徴的な記憶でもあれば別ですが。田中角栄がパーティなど会合で誰にも知られているのですが、余りにも多くの人と会うので、相手から声をかけられると咄嗟に「お名前は何とおっしゃいましたか?」「山本です」「いやぁ、苗字では無く下のお名前ですよ」と言っていたらしいです。

    • なるほど、そういう逃げがありましたか。最近は顔を見間違えたり、名前出ず、先方はこちらの名前を憶えているのに失礼すること多くなりました。壊れる脳細胞が増えている恐怖を感じます。私なんか近所の人の苗字が出ないので、玄関まで見に行ったこともありますが、次の日、忘れています。覚えたくないのでしょうかね。

  3. <創作小噺>

    キレる老人「オレを一体誰だと思っているんだ!」。店員「さぁ?」。キレる老人「誰だっけ???」

    • 自分の名前を忘れるから犯罪になりませんね。欠けた脳細胞の空間の所業がキレさせたとでも言いましょうか・・・・・。

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