いいことしか言わない!正しいことしか言わない!要注意!
江戸時代に安藤昌益という人がいて、彼は我々が聖人君子と思ってる人、仏教なら釈迦、中国の儒教なら孔子、道教の老子といった人たちをダメだと喝破。なぜかというと、倫理的にいいと思われることしか言っていないからだと。天然自然を主体に考えればいいことも悪いこともあるのが当然であって悪いことを言わないのはそれだけでダメな証拠。
彼の考え方によると、釈迦・キリスト・孔子・老子たちがいいことしか言わないのは、世の中に悪いことがたくさん現れてきたためだと。つまり、いいことを言うのはそれ以前の時代に比べて精神が悪くなってる証拠なのだと。「説教者の毒」。聖職者に多い。教員にも多い。テレビコメンテーターは毒にも薬もならないコメントばかり。お茶の間を不穏当にしない発言ばかりだ。
孔子についても魯にいながら以前の周公を理想の統治として過去を見ていたし、老子もグレートマザー的な理想郷があったし、イエスは最後の審判で蘇る人間を想定して、今現在を拒否る人生を送って、説教を弟子たちに残したし、マホメットもそうだ。しかし、教祖たちはどうして「いいことしか言わないのか?」という問いは残る。泥沼の上に蓮が咲くのに、蓮だけを語っていたのか?新興宗教の開祖は、いいことを言わないと信者が集まらないからそうするのだとすればシビアな現実を直視する、どろどろ、悲惨な現実に目隠しをする役割があるかもしれない。
ある人が、人間は糞を溜めた生き物だと言ったけど、こっちの方がバランスのいい人間観になるかもしれない。安藤昌益は秋田藩か庄内藩の出で、農民たちとともに育った思想家だ。マルクスより早い時期に収奪の論理を説いている。考えてみると私の大腸にもきょう食べたご飯や野菜や肉が口から入って、食道や胃を通り、胃液で分解されて小腸・大腸を通ってお尻から出る。これが生物的に生きていることである。昼ご飯を食べながらこのブログを読んでいる人には尾籠な話題で申し訳ないけど。
正しい説教談やいい話のパレードには要注意しましょうということだ。きょうも本屋のビジネシ書コーナーにビジネス戦略編、ナポレオンヒルやカーネギーの本、企業成功した人の言葉が並んでいる。思考は現実化するだって、あたりまえじゃないか。読むなら本田宗一郎やソニーの井深さん、鈴木自販の会長の清濁併せのむ話が最適と思うけど。本田宗一郎さんの講演もユーチューブで聞ける。フランクで楽しい、それでいて胸に残る。べらんべい口調で、工場職員の手が汚れても平気で握手する。安藤昌益が生きていたら、これこそ真人間と断言しただろう人だ。遠くを見なくても足元に、日本の歴史の中にお手本はたくさんいる。
参考文献 「真贋」吉本隆明 講談社 安藤昌益の「自然真営道」を借りてきたが、難しい。
*とはいえ、学校教育は、これでどうなるのだろうか?
匿名
聖職者や偉人はさて置いて、現代では識者や教育者に当てはめれば、職業柄正当な行いや言動・態度を前面に出して如何にも聖人君子よろしく振舞いますが、実際は普通の人と余り変わらないでしょうね。むしろ普段の生活態度にこそ本来の人間性が有るのでしょうね。ごく普通の人にも二面性は有って、外の顔と内の顔を持っているのでは無いでしょうか。内の顔が本性だとすれば、それを、どこまでも貫く人は稀では無いでしょうか。反面教師的な人は大勢いますが、一貫して自己を表現し続ける人は少ないですね。また、そのような人の言動や行いは側から見ていて痛快ですね。
seto
一番、賢い人は皆の前でバカになれる人かもしれません。笑いや笑みをもたらすからですね。内と外のバランスがいい人です。食べて出して寝るのが人間の基本行動ですから。そして世界を認識するわけで(世界虫)と言われています。(司馬江漢)。