金持ちになればなるほど孤立していく。
金持ちになればなるほど孤立していく。
貧しさも孤立を促すことが多いけれど、お金持ちも『財産守り』だけに走ると孤立の道を歩くような気がします。親の遺産が転がり込んで夫婦とも毎月の家賃収入が入り、使いきれない収入がある人がいます。MAC大好き人間(信者)ですから新型が発売されると、日本人で最初に買う意気込みでロスへ旅たち店の前に並びます。最初は小さなベンツがいつのまにか高級ベンツに様変わり。会ってしゃべってもワインやハワイの話やMACのソフトの話題で私は全然興味がないので付き合うのを止めました。
3.11東日本震災のときは、彼はハワイにいてメールで『こちらは約10センチの津波で全然被害がない』とノーテンキなメールが届いてその無神経さに唖然としました。想像力の欠如。彼の同僚たちも『あいつは大金持ちだからね』と敬遠。過分のお金が彼の人生を狂わせています(本人はそう思っていません)。なぜこうなるのか?お金はじっとしているのが嫌いです。たえず動きたい生きものです。その人のお金の使い方(使わなさ)を見ると一番その人がわかります。高級品で身を固めるか、海外へ何度も行くか車を買い替えるか会員制健康クラブへ通うか女(男)に貢ぐか投資マンションを買いあさるかファンドにさらに儲けるようお金を預けるか・・ですね。
バブル経済の只中、株が流行りました。NTT株で儲けてヨーロッパ旅行に行った女性もいました。新車を買って喜んでいた人もいましたが、ある時期から〈皆が走る方向へ私は走らない〉というへそ曲がりになりました。たぶん、戦前の日本社会の誰もが旗を振って兵士を送り出した戦争のフィルムを見たり記録を読んで、政治思想の片鱗を勉強して、変人や異端が次の時代をつくることを学びました。自分のことはさておいて、子供たちや孫たち、彼らの生きやすい時代や社会はどうなんだろうと考え、行動することが多くなりました。結論はお金持ちは自分のことはさておてという考え、自分の財産は身内で・・・という発想をどこかで捨てらえないかという淡い期待である。孤立してもいいと思うなら何をかいわんや・・である。
海外旅行アレルギー性症候群
海外旅行を何十回、百余回と自慢話をする人たちは多かったですね。(過去形)。つまり今回の全世界に感染拡大中のコロナ禍は何と?いとも簡単に、そんな人たちの自由さえ奪ってしまいました。結果、過去の経験談しかできなくなりましたが、聴く方?にとっては既に何度も聞かされていますからウンザリですね。観劇もコンサートも、スポーツ観戦も、飲み食いも、すべてが制限されている現在、彼らは、話す相手が居なくなり孤立しているでしょうね。至近での会話さえ敬遠されている現在、相手にしてくれるのは、辛うじてネットショップでの消費活動くらいですかね。
seto
海外旅行でも『兼高かおる』さんの旅行番組は面白かったし、現地の人とたくさん交わってきた人の旅日記は大好きです。せっかく行ったのに最後は『日本に生まれて良かった』ですからね。そんな金があるなら困ってる人の暮らしをひっそり助けりょ・・と落語の長屋的発想しますね。金持ちはたえず自慢の場所を探します、街中であったり、高級レストランであぅたり、持ち物であったり、『私を見て、すごいでしょう。』たえず、他人からの羨望の視線や言動が生きがいになっているところあります。単純です。無いのは『自分の考え』です。
自我爺さん
確かに貧富の差は性格にまで現れる事が多いですね。お金が、財産が全てとなれば、それ以外は二の次にならざるを得ませんね。お金に執着しないお金持ちは先ず居ないと思いますが、お金に執着しない貧乏人は大勢居るでしょうね。と言うより元々環境が整っていますから執着しようにもできませんからね。傍から見れば、単なる貧乏人の負け惜しみにしか見えないかも知れませんが。上を見ればキリが無く、下を見てもキリが無いですから、今、置かれている立場で考えて生きる事以外、背伸びした無理な生き方はできませんね。むしろ我々貧乏人の方が下を見て気遣う心を持っているのでは?と。
seto
そのとおおりで、貧乏人に優しいのは貧乏人・・・というのが相場です。周りを見てもわかると思います。金持ちになった原因を分析すると、たまたま勤めた会社の給与がう良かった、遺産が入った、アパート経営権を親父から引き継いだ、配偶者が金持ちであった。どこにも本人があることをして、事業でお金持ちになった人、超少ないのです。偶然、ラッキーの世界でそうなっただけ。しかし、それを何か『自分の実績や能力』と勘違いする人がいるので不愉快なだけです。いつまでもお金持ち競争をしたがる、消費社会、いずれ終わると思います。社会は有機的にたうくさんの分野とつながっているからです。隣の人を助けられる気持ちあるくらいの金持ちのメンタリティー『紳士』になってほしいですね。
貧乏カネなし年中薄給
高齢になって思うのは、一度でいいからラクしたかったですね。この先も、そんなアテはなさそうですが、せいぜい200円、300円のロトでも買って、間違いでも起きないかと細やかな遊びに興じるこの頃です。しかし毎回高額当選者が居て、しかもキャリーオーバーで十数億円の当選者も実在するわけですから驚きですね。でも考えてみれば、その賞金も我々貧乏人のケチな考えで購入する些細なお金の寄せ集めですからね。つまり、クジでもパチンコでも競馬でも、全ての賞金は沢山の貧乏人が寄付したお金ですからね。残念ながら?お金持ちにとって貧乏人は有難い存在かも知れませんよ。
seto
博打は胴元をすれば100%儲けます。なので国が独占するわけです。競馬は農水省、競艇や自転車、宝くじは総務省、サッカーは文科省。民間に籤を開放すると重い白いですね。江戸時代、富くじがありました。こういうのを自由に復活すると面白いですがね。パチンコ行ってもお金持ちはあまり(たぶん)来ていません。しかし、いくら持っていたら金持ちで、貧乏人の定義もよくわかりませんんが、明日や今月食べれる人たちでも貧乏人と言うのでしょうか?
儲け話に縁なし
退職金で豪ドルや株に投資して年中「上がった、下がった」と心配している人が居ます。景気はどんどん下がる一方で、元本が戻る筈が無いのは信託銀行などが仲介して今売るなと言い続けているからです。「あの時解約すれば良かった」「あの時売っておけば良かった」と悔やんでばかりですね。儲け話の大抵は、銀行など仲介業が儲かる話でしか無いようですね。
seto
手数料で生きています、クレジット会社やサラ金『銀行)と同じです。証券会社は売り買い両方から手数料取る不思議な世界ですね。何も生産していませんから。空虚の世界です。