楽に人生を生きる方法は・・・・? 777回目のブログ再録。
楽に人生を生きる方法は・・・?NO777再録
モタさんの言葉。相手への要求水準を初めから低く設定・・!
「相手への要求水準を初めから低めに設定するのが」人間関係をスムースにするいちばんの方策だ。2006年に亡くなった精神科医斉藤茂太さん「モタさんの言葉」(講談社)71p。結婚にしろ、もともと他人同士が暮らすのだから、50%の満足度でいいと。腹八分目主義を貫いた彼の人生観だ。
だから、人間関係をスムースにするには、初めから相手に対する要求水準を低めに設定すればいいんだと。これは自分の感情や気持ちの高ぶりや失望感でわかること。何度も繰り返すうちに、相手への要求水準を低くすれば、不信感や怒りの感情の渦へ巻きこまれないで済み、気持ちの平安が保てるというわけだ。配偶者はもちろん、子供や近所付き合い、仕事関係でもこの原則を貫くと気持ちよく生きられる。
「圧倒的多数の人は平凡で、世間にふれ回るほどの才能やとりえはないかもしれない。でも、そんな自分でも、悪事をなさず、多少は人さまのお役に立ち、家族と生きている・・と思おう」なんだか相田みつをの言葉と重なってくるようだ。似たような言葉でモタさんのメモ「毎日、大した仕事をしていないところに男の本当のえらさがある」(柴門ふみ)も引用している。
毎日、通勤しているだけでも凄いと、うれしい限りの言葉だ。成果主義や効率主義や費用対効果、選択と集中や企業の資源の分配やら、対前年売上比の表やら、新規事業の立ち上げやetcに関わってきて、大した実績も残せず定年を迎えた筆者にすれば黄金の言葉の数々であった。
特に、相手への要求水準を低く設定する、ということは親(特に母親やそれなりの地位についた父親)が総じて陥る、子供への要求の高さ(期待)と失望で出てきやすい。学校や勤める企業、後々、結婚する相手の家族歴詮索行為とか、結局、親自身の見栄が子どもの未来を潰すケースが身近に本当に多い。
自分の場合も娘の結婚のときに悩んだが、分析すれば自分の見栄が勝っていただけということに気づいた。相手への期待値を下げると、ラクラクな人生を歩める。しかし、その分、自分が頑張り過ぎて病気にならないよう気をつけましょうね。ある企業の営業マンが筆者に「数字のない部署へ行きたい。毎月、売上に追われるのはコリゴリ」と。まだ29歳だ。「早く定年を迎えて年金生活をしたい」。「人生はプロセスなんだけど。何もしていないじゃないか?」と私は彼に何度も言ったがわかってくれただろうか。
両親から「無いものねだりはしないでね」とよく言われた。〇〇が欲しいと言ってもお金がないから買えない、無理難題を言いなさんなという意味が、この年齢で実感するとは筆者も幼稚な人生観で生きてきたものである。
初めから相手への要求水準を低めに設定する。「あの人、約束を反故にしたり、よく遅刻するんんだよ」と思えば、文庫本をカバンに詰めて行くといい。イライラしないで済む、心身の病気の予防でもある。
追記:しかし、楽な人生ってそもそもあるのかどうか?ひとりひとりを見ていると山アリ谷アリで、それなりに越えてきて今があるので。楽と思えるのは、現在が楽な暮らしを維持しているから、昔のことが『楽なように』意識されるだけかもしれません。たくさん遺産の分け前に預かれば、乱暴なお金の使い方をしたり、ドけちにはまったり、お決まりの修復不可能な兄弟喧嘩になるのが世の常。子供に大金を残せば毎日働き、稼ぐのがバカらしきなるみたいで(そんなご身分になってみたい)と多くの人が言うけれど、実際になってる人に聞くと、世間のやっかみは凄いですよと、そのストレスで目を赤く晴らして筆者にこっそり教えてくれたので書いておきます。
昔の少年。
人生の時間のほとんどを使ってしまった今、これから短い老い先を楽に生きられるかどうか?ですがね。せめて他人には干渉せず自分の思うように生きて見たいですね。これまでは誰かの為であって、自分の為に何かに没頭したりして居ませんでしたからね。経済的には苦しくなる一方で正反対に何かにつけ費用がかかるご時世ですから、お付き合いも程々に、身軽にシンプルにしていかなければいけないでしょうね。御無礼は全て歳のせいにして。
seto
私も人生の時間はほどなく終わると言う気持ちは痛いほどわかりますが、自分のために使おうとは思いません。10代からここまできままに自由に生きてきたと思うのです。なので少しは誰かのために生きる目標を設定しています。新規事業で、私がいなくなっても残るような仕組み(社会提案)を実現できないかたくさんの人に知恵を借りてつくっています。毎日毎日全力で生きるようにしています。できるだけ役所が噛まないような民間+民間での構想です。ようやく自分が何をしたかったのかわかってきましたが、そのときには時間がありません。急がないと。
広告マン。
考えてみれば、自分自身、他人様よりラクして来たようにも思えます。若い時には食えない時代も多少ありましたが、手職をつけたお陰で、就職も、他の皆さんのように難しい試験もなく面談だけで簡単にありつけましたから。面接には必ず自分の作品を持参して一言二言話しただけでした。そんな繰り返しで数社を渡り歩いて来ました。入社試験は最初の一社だけでしたね。それも面接と作文程度でしたから得意分野でした。しかし最近になってデジタル化時代になり、これまでのように手職だけではラクな人生は約束できなくなりましたね。文系や芸術系だけではなく、理工系の頭脳も必要な時代になって来ました。「現代をラクに暮せるか?どうかは?あなた次第です」。とい言う訳で、我々の時代の「ラク」と現代の「ラク」とは?同じラクでも全く違うのでしょうね。その時代の価値観の違いのように。
seto
ラクの価値観、いまと昔は確かに違いますね。終身雇用はないし、派遣労働や短期就労でラクを選択すると暮らせない厳しさに直面するので、モタさんの時代ではないとは思いますがSEにしても35歳を過ぎるともうついていけない、テンポアップですからね。果たしてエジプト以来今日まで(最近はホモサピエンス誕生からという表現を使います)、人間の心身にデジタルが及ぼす大脳や心身への影響分析をしていますが、私のみるところ、イライラ感激増、キョロキョロな目だらけ、と思えばアスペルガーの人に多い一点凝視で自己埋没。前にも書きましたがお手本になる人がどんどん減っています。首相から官僚から都道府県の首長にも変な価値観の(コモンセンス通じない)輩ばかりなので、困ってしまいます。また、オームみたいな宗教が流行らないことを祈るだけです。
坊主の孫。
夫婦でも友達でも仲良く暮らすとか過すのは結構大変ですよね。相手の思い通りになれば、相手は快適ですが、こちらは我慢の連続になるでしょうからね。そこまで我慢してまで上部だけ仲良く暮らしても快適度は偏るだけで、ラクに過ごしているとは言えないですね。ラクに過すにはお互い相手次第ですから、そんな相互理解の状況が理想でしょうね。ラクに暮らしたり、過ごしたりする為には、せめて、夫婦も(元は他人)含め、他人を不愉快にだけはさせない事が基本でしょうね。
seto
他人を不愉快にさせても、自分・自分快適を選択する人が男女問わず、異常に多いです。仕事においてもそれが出てきますね。『俺は悪くない、相手が悪い』どこまでも頑固に生きてきたのでしょう。ケンタに行ったとき店長曰く『いやあ突然、バイトがきょうは来れない』って電話きて現場混乱だと。私に話す必要もないことながら、自己都合の勤務態度に怒りを覚えたのでしょうね。仲良く暮らすためには、距離をとること、何でも干渉しない。あなたはあなた、私は私を貫くことかもしれません。そして財布はどうなるんで消化?全部、妻??