「きっと君は来ない」(クリスマスイヴ歌詞)をめぐって
山下達郎のクリスマスイヴの歌詞に『きっと君は来ない』とあるが、日本語としておかしいのではないかと小さな論争が起きている。達郎ファンの一人として何度も自然に聞いていたのでびっくり。まずはJR東海のクリスマスエキスプレスTVCMの話。通信手段がスマホであれば、『あなたは何時の新幹線に乗り、何時に名古屋に着くのか』すぐに知れるから、日本語として『きっと君は来ない』という表現はあり得ないということかもしれない。達郎さんの『クリスマスイヴ』のCD発売が1983年である。JR東海の新幹線クリスマスエキスプレスのCMは1988年から2000年まで流された。その当時、恋人同士、どういう通信手段で連絡を取り合っていたかを調べると、ポケベル登場が1968年(筆者も持ったことがある)、携帯電話サービス開始が1987年、PHS開始が1995年だ。ポケベルはビジネスマンは多用していたが一般的な普及には遠い。PHS普及はしていたが、まだ普及率はどうだろうという感じ。恋人同士、離れていると、お互いの自宅へ電話をするか手紙を書いて意思疎通を図るしかない。携帯やパソコンのない時代のことである。仕事が終わって彼氏が東京から新幹線でクリスマスプレゼントを持ってやってくるイヴ。来ると言ったけれど、残業や大学生なら勉強やアクシデントで来れないかも知れないが、待つしかない。ここまではJR東海のCMについての話。山下達郎さんのクリスマスイヴは、男の側からの失恋ソングとして聞ける。ひとりきりのクリスマスイヴの話で、きっと素敵な彼女に『来てね、待ってる』と伝えたが、違う彼氏のデートに誘われてそちらを優先したのだろうと思う歌。通信手段があってメールで『ごめん、きょうそちらに行けない』とは伝えられない時代だから、待つ時間はヒリヒリする。自分に自信がないしね。昔のデートはそれぞれタバコを吸わなくても喫茶店のマッチ箱を持ち歩いた。時間に遅れるようなら店に電話をして呼び出してもらう。そういうサービスをジャズ喫茶以外すべてしてくれた。店内で『○○さん、お電話です』とアナウンスが入る。そういう時代の『クリスマスイヴ』なのである。失恋を予感した歌なのである。話が筆者の青春時代の失恋を含めて錯綜してきたのでこのあたりで止めるが、「きっと君は来ない」は、恋愛の常態で男側からまたは女側から振られる不安が消えることはない。
ヘターリスト。
歌詞は作者の意図が分からなければ「おかしい?」と思うものは多いですね。でも昭和の歌詞はまるで「小説」のフレーズのようで感心するものが多いですが、平成以降の若い歌手たちが歌っている歌詞は「日常会話」そのものだったりするものが殆どで言葉も多く早口で歌うものですから我々には聞き取れないものばかりです。おまけに外国人の日本語のような発音表現が主流ですから尚更です。その違いは、今では作詞家・作曲家・歌手の分業では無くなったからでしょうね。シンガーソングライターとして優れた歌手達が登場し始め、音楽環境と音響機器の発達も手伝って自作自演も容易になったからなのでしょう。ラップ辺りになれば韻を踏むとかで同音異句を並べた「現代のお経」そのもので、まるで説教ソングですね。時代の変化で歌謡曲の衰退とともに作曲家や作詞家稼業も衰退してきましたね。
seto
昭和の歌には専門性があって役割分担がありました。崩れてきたのはフォークやシンガーソングライターが出てきたころでしょう。プロテストソングもありましたが、私小説風なものが多かった。日常会話が出てきたのは新井由美やサザンあたりでしょうか。木綿のハンカチーフも好きでしたが、ヒストリーを感じる歌詞展開でした。そこに説教はありません。ラップを聞いていて、リズムは嫌いではないのですが、聞く人間に説教の科白が出てくると鼻白みます。生き方や人生についてね。本屋の人生論コーナーに立ち止まるソング集です。元々、幼いころから説教や演説嫌いなので敏感に拒否感でます。山下達郎は別格で日本の音楽シーンと別次元で孤立して活動してました。追っかけが当時慶應大学生の竹内まりやで、達郎の師匠が大滝詠一。50年代60年代のアメリカのブラック含めて聞き込んでいた二人です。博士二人です。
昔の少年。
デートですか。懐かしいですね。通信手段は手紙、つまりラブレターでしたね。遠距離では相手に届くまで2~3日掛かりましたね。返事が来れば一週間後くらいでしたね。これではお互いの事も文字からの解釈以外、何も分からずに時間ばかりが過ぎていたわけですね。電話もあれば良いですが、下宿住まいの身では使えませんでしたね。初恋が破れた原因は、今思えば通信手段が無かったからかも知れませんね。彼女から手紙で彼女の姉の嫁ぎ先の若狭のお宅に呼び出され、大阪から出かけたのでしたが、肝心の彼女は来なくて、姉夫婦と母親が私を待っていました。経済力も無い男と一緒にさせたくない親心で、夜遅くまで諭されました。遅くなったので泊まって行きなさいと。が、本人不在では納得が行かず、一睡もできず早朝に、こっそり抜け出し土砂降りの中を傘も差さずにJR駅まで走って始発に乗り彼女と弟と父親の居る自宅まで行きました。気づいた母親も後を追って帰宅。少し話して本人の気持ちも親の気持ちと同じと確認したので、彼女を連れて行くつもりで無理して買って持っていた彼女のための大阪行きの切符と特急券を置いて別れました。最後に、二人で無言で歩いた桜並木のトンネルのような堤防の道は桜の花びらが絨毯のように見事でしたが、駅で手を振って電車に乗った後は辛かったですね。4年も遠距離では仕方が無いと、今は理解できますが、当時は恨みましたね。今のような通信手段が有れば人生も大きく変わっていたでしょうね。それが幸福だったか?は別にして。若かりし頃の、桜の季節の苦い失恋の思い出ですね。
seto
いまの通信手段があれば、60代以上の人たちの人生は大きく変わったでしょうね。付き合いも別れも結婚も。ラブレターは夜に書いてはいけないと言われました。感情がこもり過ぎて、昼間読むと恥ずかしい文章になっているからですが、いまでも夜のメールは要注意ですよ。失恋のときの風景、よく覚えていますね。私の母が造幣局の桜道で海軍の人とデートした日のことを私に何度も何度も話します。『戦死しなければ、大阪空襲がなければあの人と結婚したと』ほとんどの人にそういう思い出が詰まっていて、あたかも何事もなかったように街中を歩いているのだろうと思います。当然、記憶の改竄もあるでしょうが、別れ際、印鑑と通帳を渡されたのは母親と結婚する意思表示でもあったのでしょう。スマホでもあれば神戸から出た船との間で最後まで話せたかもしれません。
流浪の民。
喫茶店でしたね。集まるところは。北5条通りを電車が走っていた頃、行きつけの喫茶店にギターが置いてあって、行けば必ず近所の予備校生もやって来て一緒に歌ったり話したりしたものです。親元を離れた若者ばかりで、ママも母親みたいに、優しかったり、時には厳しく接してくれたものです。最初のアルバイトにありつけたのも、その喫茶店の常連のお兄さんからの紹介でしたね。知らない間に彼は、遊び半分の僕たちを気にしていたらしく、或る日「仕事しない?」と、住み込みで家賃ち食費のかからない新聞販売店の拡張や配達の仕事を紹介してくれました。そんな喫茶店は今では在りませんが、そこでは、いろんな出会いがありましたね。気が合う仲間が自然に集まる店。ママとしてはコーヒー一杯で長時間居座られても商売には成らなかったでしょうね。何故か?若者が集まる今では考えられない不思議な喫茶店でしたね。
seto
喫茶店は知り合いもできたし、集う場所で読書会や勉強会、訴訟の相談、借金の申し込み、デートや別れ宣言の場所、マスターに愚痴を聞いてもらう場所、読書する場所、遠くから来る友人と会う場所、ビールも飲めましたので居酒屋の機能もありました。ありがたいのは玄関に電話があること、呼び出してくれることでした。