柳2

筆者が住む街の近郊の風景

「退屈と平和」は親戚のような言葉に見えることがある。窓を開け、風を入れて、好きな本でも1冊あればウトウトと眠くもなって、隣のベッドで昼寝をする。電話も鳴らず、客も来ず、テレビもラジオもつけず、新聞読まず、いったん下界をシャットアウトしてみる。

筆者の住む街に自衛隊の特科連隊が近くにあって、戦車の空砲が聞こえてくることがある。実弾射撃演習で行方不明になった弾は見つかったのだろうか?市民はその夏、そこの周辺での山菜取りが禁止された事件があった。探索を諦めたのか、まだ侵入禁止なのか不明だ。

話変わって、糖尿病の薬を処方してくれる病院の院長が「NEWS WEEK」を定期購読していて、毎月4冊から5冊のバックナンバーをもらうことになっている。中東の戦争(内乱)の悲惨な写真がいつも掲載されている。少年たちが誘拐されて、ISISの洗脳を受けて自爆テロを行わせたり、殺しをやらせる記事も出ていて、吐き気がするが、これが現実なんだけど、いったいいつまで続くのか。

終わりなき「ロンリーウルフ」の跋扈と恐怖が世界中にばらまかれた。ある日突然、一匹オオカミが爆弾や銃を人々へ投げて殺傷する。自宅の前をブザーを鳴らして遊んで帰る小学生の群れが通る。変なおじさん対策か?昔のテロは、オーストリアの皇太子を狙ったり、アメリカの大統領を暗殺したり、ロシアの皇帝に爆弾を投げた。当時の社会党の書記長も山口二矢(おとや)に舞台でぐっさりヤラレタ。

しかし、いまは不特定多数が対象で、「別に誰でもいい、自分の欲求が満たされれば瞬間的にOK。自分の存在が外の人間へ表現できればいい。承認されれば否定的な承認であってもそれは承認と同じだ」と言うかもしれない。ネットで匿名による誹謗・中傷の言説を見ていると、これは言葉のテロリズムとしか読めないものが多い。ヘイトスピーチは、その人の責任ではないこと(国籍・民族・肌の色・生まれなどで)に、差別的な言辞を繰り返す行い宣伝活動だが、雑誌や週刊誌にはいまも扇情的な見出しが躍る。

題名だけで買う必要がないくらい詳しいタイトル及びサブコピーだ。感情に訴える伝染しやすい言葉を使う。いわゆる嫌韓反中本の類が書店の一等地を占めている。きょうのテーマは「退屈と平和」であったが、こう考えると現代は、考えること多すぎて退屈どころか多忙、平和どころかどこでも実弾と紙つぶてが飛び交う戦場なのかもしれない。これははっきり言って「隣の人は何をするか、言うかわからない」から気をつけようという生き方サインなのか。とんでもない時代に入ってしまったものである。それぞれの心の中もすでに戦場になっているかもしれない。

  1. 田舎では「人類皆兄弟」と思っていたが都会に住んだ頃は「人を見たら泥棒と思え」と自分に言い聞かせたものだ。そのころから都会は異常だった。駅のベンチに腰掛けているだけで「手配師」が忍び寄り、外食していると「恐喝犯」に目をつけられ、電車の中は「スリ」に警戒し、道を歩けば「ヤクザ」に絡まれ、異常な都会が国の中心だから、国も異常な事態になっていく。都会では常識のビルやマンションでは「隣は何をする人ぞ」と警戒しながら自己防衛をして生きている。そんな隙を狙った犯罪は実に巧みで、まるで「推理ドラマ」以上に警察もお手上げのようだ。違うのは、いつまで経っても「名探偵」が出現しない事だろうか。これを国対国に置き換えても全く同じ現象が見られる昨今だ。国民不在の某国の元首の言動ひとつで「因縁」をつけられ「核ミサイル」がいつ飛んでくるか分からないほど「敵対心」を持たれる現実があるからだ。「秋深し、隣は何をする国ぞ?」馬笑。

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です