『進化は未来のことなどおかまいなしだ』(リチャード・ドーキンス)
『進化は未来のことなどおかまいなしだ』(リチャード・ドーキンス)
『利己的遺伝子』の40周年記念版の50pに書かれていたドーキンス博士の言葉。『進化は未来のことなどおかまいなしだ』。自然現象もそうだし、考えてみると、突然変異は、次に生物の変化(進化)を予告するのだろうけれど、合目的的(高いところの実を食べれるように背が高くなったとか、空を飛ぶために羽が付いたとか、生物がある目的のために変化することを合目的的という)に変化しているわけではない。結果としてそうであっても、その目的のために進化はしない。はっきり言って偶然の出来事でしかない。
なぜ、人間は二本足で立ったのか?二本足で立ったから二本の腕を使えるようにはなったけれども、腕を使うために二本足で立ったわけではない。京都大学の今西錦司さんは『ある日、突然一斉に立った。』である。世の中には理由のない事柄がたくさん起きる。現に毎日起きている。私たちはいつのまにか『因果論(律)』に大脳が捉えられていて、起きてしまった事柄を平気で原因分析をして結論出してチョンで終わる。しかし、ドーキンス先生は『未来のことなどおかまいなしに進化が発生する』と言う。突然、3本の手を持つ生物が出てくるかもしれないし、目が3つあったり、頭が三角形かもしれない。何でもありなのである。
『私たちにとって都合が悪いよ』と言っても、進化は自然現象と同じで関係ない世界なのである。いつのまにか人間は、生物の中でとても高尚で、賢くて言語を操り、次々に発明をして、文化や文明を築いてきたけどそれも偶然の出来事で、昆虫や花という生き物は作れない。人間とは何かとギリシャの哲学者や古代の賢人は問いかけてきたが、いまだに結論が出ない。発言者が自分の立ち位置で都合のいいように答えているに過ぎない。人間とは気まぐれな動物だ・・が一番近いかもしれない。
夢も希望もなくなってしまうが、明確な目標を立てて毎日努力を惜しまない人間が評価される世界ではあろうけれど、その背景には人間の価値観は変わらないはず(努力は大いなるプラス価値、誰よりもお金持ちになる、出世する価値、子供をどの子供より難しい学校に入れて、未来の幸福が約束されるだろう位置につける・・などなど)。しかし、果たしてそうか?幸福という価値観にしても、みなさん十分経験済みではあろうけれど、瞬間的な出来事に過ぎない。不幸が来るというわけではなくて、幸福感はすぐに去ってしまう。偶然な出来事で、偶然であるがゆえにより強い幸福感を瞬間味わえるだけ。『進化は未来のことなどおかまいなしだ』。未来は何があるか予測がつかない、やはり『一寸先は闇』が真実ではなかろうかと思うきょうこのごろ。さらに危険な考え方ではあるけれど、『努力する人は』あらかじめ『努力できる遺伝子』を備え持っていて、それが『努力という行為』を生み出して『ある程度の結果を出す』。これはどの分野でも言えることで悲しいけれど現実だ。親として自分の子どもをそう思いたくないのはわかるが、『この親にしてこの私』がしみじみ感じる10月20日の初秋。
昔の少年。
身近なところでは「今の若者達は?」と感じることも広い目で見れば、人類の偶然の進化過程なのかも知れませんね。
seto
自分たちの思い込み(こうあるべきだ)はすでに時代遅れになってる可能性大ですね。しかし、それでいいのでしょうかね?
坊主の孫。
結果論ですね。事が治まった後で如何にも分かり切っていたような解釈をこじつけるなんて、よくある事ですね。予言者なんて人まで現れて大胆にも先に起きるであろう事象を語り、これまで大抵は大外れしています。例え当りでも偶然ですから、つまり予言などムリで無意味な遊びに過ぎません。人間の力では大した事は出来ないと言う事ですね。それより今後起こるであろう事象に合わせて生きていける柔軟性が必要なのでしょうね。
seto
テレビのワイドショーは結果論だらけで,事件終了の後、好き勝手にしゃべってギャラ稼ぎしているようなもんですね。事件が起きたときには事件は終わっているのです。
匿名
猿真似なんて言いますが、人間も含めて動物は真似する事が好きですね。ですから誰かの行為を真似るうちに進化して行くのではないでしょうか。悪く言えば「パクる!」っても言いますが。
seto
小猿の芋洗いが有名で、宮崎県で小猿が芋を洗うと大人が真似をして一つの文化になりました。現代の様々な流行も若者の後をおじさんとおばさんが真似ていることが多いように思います。若さを嫉妬する老人達もエジプトの壁絵に(近頃の若者は!)と書いてましたからね。約4000年、変わらないです。もっとかもしれません。