加齢とともに肉体と精神、お互い嫌いになる(!?)
立川談志「まくらコレクション」に、60代最後の独演会で「だんだん、歳をとってくると肉体と精神が離れていくんです」(精神が肉体に)「仕事をするんだよ」と言っても肉体は「もう疲れたよ」と。肉体は精神のことを本来嫌いなんです。最初は言うことを聞いていてもだんだん精神のことが嫌いになっていく、。・・・肉体は肉体で眠いのに起こされて、精神が嫌いになってゆく云々。だらしない肉体に精神も肉体が嫌いになってゆく・・・・。219p 竹書房 思想の奴隷より。
なるほどね。精神と肉体を二人と考えると、二つと考えると、ずいぶんすっきりする。精神と肉体に整合性を持たせようと人間は長きにわたって思索してきた。元々、嫌いな者同士を合わせようとする営みだから若いうちは無理がきいて「走れ」と言われれば「走る肉体」があったり「働け」と言われれば「働き動き回る肉体がある」のだが、加齢とともにそれがごまかせなくなる。余談だが、離婚も本来好きではなかった二人が無理して結婚して、加齢とともに地金が出てきたと思うと理解しやすい。
人間には元々一人一人に「核」があって、その核を中心に生きているというのではなくて、楕円を思い浮かべればいいが、焦点は2つで、それが仲の悪い精神と肉体だと思うと人間理解や寛容度が増すような気がする。自分自身に無理をさせないようにすると思うのだ。仲が悪いから何とか仲良くさせようとした営みが哲学ではなかったかとも思う。なまじ数字とか言葉とかつくってしまって、精神と肉体の対立をうやむやにしてきたがゆえに、歳をとるにしたがって、本来の仲の悪い正直な姿で本人に蘇ってくると考えるとわかりやすい。私も営業の世界を離れてだいぶ経つ、数字や相手への言葉への説得行為も少なくなってきて、精神と肉体の乖離の思考に共感を持つようになってしまった。悲しいけれど現実だ。動かない管理職ほど蘊蓄を語りだして止まらない。本人の気づかない自己分裂である。
精神で肉体を縛ろうとする志向はスポーツ選手や道を求める人たちには普通のことのようだが、どちらにも縁のない私から見て、できれば修行なんかしないで生き終えたい気がする。
坊主の孫。
誰しも、年とともに体より口だけが達者になるものですね。人によっては若い時から口八丁で生きている人達もTVなどではよく見かけますね。コメンテーターとか、評論家とか、身体を動かす代わりに頭と口だけで生きて行ける人たちも。しかし、いずれも最後はその口さえも利けなくなるのでしょうね。生命の短い植物も一時は美しく咲き、見る人の心を豊かにしてくれますが、やがて役目を終えれば自然に枯れて絶えるように、人間も様々で生命力の長さの違いはあれ、全く植物と同じですね。美しく華やかに花を咲かせる人もあれば、地味だけれど強くたくましい野草の小さな花を咲かせる人、または花さえ咲かせず野草のように生きて行く人など様々ですね。さしずめ私などは後者ですね。
seto
坊主の孫さんも咲いてますよ、本人が気づかないだけでね。生命現象でアポトーシス(細胞死)が必ずあります。これがないと次の生命は出てきません。細胞が自ら持っている自死のプログラムです。遺伝子で伝わってます。秋になると葉が落ちるのも,葉と枝をつないでいる細胞の壊死による葉の落下作用です。人間の体の細胞も毎日毎日これを繰り返しています。次の生命が発生しないと、そこで死がやってきます。生物的にはそういうことになりますね。
seto
もともと肉体と精神は仲が悪いという説、立川談志さん、この考えをどこで入手したか興味ありますが、わかりやすいですね。下手したら精神分裂病と言われるかもしれませんが、そうネーミングすること自体、「精神と肉体は一緒で仲良くあるべき思想に洗脳されている医師や教師や学者や思想家の思い込みかもしれません。そうしないと個人という定義ができないからです。」もともと個人という概念はなかったものを(中世史研究家 阿部謹也は12世紀に個人が発生したと立論してます)、中央集権や税を徴収する単位として個人という概念を大々的に導入して800年が経過しました。何万年の人類史から見ると新しいほやほやの概念が個人です。
昔の少年。
いつまで経っても、ナマケモノの自分と、何とか頑張らなくては、と言う自分との葛藤ですね。子供の頃、父からノルマを与えれ、田畑を一つ今日中に耕せと言われて鍬を手にしたものの、半分もしないうちに飽きてしまって田んぼの真ん中で大の字になって流れる雲を見ているうちに、つい眠ってしまい、気づくと夕方になって居ました。急いで作業に戻ったのですが、既に手遅れ。父に謝って、暗くなってから家に入れて貰った事が有りました。昔と状況は変わって居ても、今でも同じですね。怠け者の身体は隙あれば手を抜く事ばかり考えますね。高齢になった今も、あの頃のまんまですね。