衣をまとわぬ人間は、こんなあわれな裸の、二本脚の動物なのだ(荒野にてリア王)
シェイクスピア「リア王」第三幕第4場 財産を譲る前は、父リア王の前で絶対孝行を約束した長女と次女。譲渡後はリア王は足出まといにされて、気が狂いかけたリア王のセリフ。権力・金力・部下を譲ればただの人、栄華を知る人は失うものが多過ぎて気が狂いそうになるものだ。「衣まとわぬ人間は、こんなあわれな裸の、二本脚の動物なのだ」そのあと「ぬごう、ぬぐのだ、こんな借り物は!さあこのボタンをはずしてくれ」「筑摩世界文学大系18 309p)二本脚でまっとうに生きている動物には失礼なシェイクスピアのせりふだと動物好きな人は思うかもしれない。
が、人間も生物・動物に過ぎないと思い、生き方を徹底するためには相当な想像力が必要だ。しかも、ほかの動物でこんなに同胞を殺しあう、憎みあう生物も稀ではないだろうか?そう思うと、地球の外からの視点で人間を見てみるのも面白い。小松左京「復活の日」は謎のウィルス(地球外から飛来した?)が、南極に住む1万人(映画では830人)(うち女性が16人)を除いて死滅する物語はご存じのとおり。その中で、ヘルシンキ大学の文明史担当のユージン・スミルノフ教授が、聞く人もいない中で最後のラジオ講座をする。「ヨーロッパ各地の大学で,十年にわたって講義を続けながら、私は一度もこのことをはっきり申しませんでした。あたり前すぎるほどあたり前であり、それは単に出発点の“ゼロ”にすぎず、いくらやっても仕方のないことでした。ーーそしてまた、それは私の専門とする文明史の終着点であります。ーーーそれは、人間もまた生物であり、生物にすぎない、ということであります。」(角川 248p)
ウィルスに自らも罹患して死にゆくからだで、人類史を総括して、学者とりわけ科学者の責任を問い、哲学者の怠慢を叱るラジオ演説は胸を打つセリフの数々だ。リア王のセリフと小松左京が創造した20世紀の文明史家が死を前にしてたどりついた結論が「虚飾」を剝ぎ取ると、人間の裸の姿が現れる。死を前にすると虚無の世界が出てくる。脳梗塞で半身不随になった知人が「誰にも会いたくない」と拒んで、実の妹さえ面会謝絶にした。自宅にはオーディアオ機器をそろえ、クラシックCDや映画のDVD、レーザーディスクもあってマニアであった。新刊も詳しくコーヒー飲みながら長い時間、雑談できる大事な人であったが、すべての興味を失ったらしいと奥さんから言われた。民間企業の役員を勤め、プライドの高さはピカイチだったが。いまはどうしているだろうか?