参考図書 瀬川拓郎『アイヌ学入門』(講談社現代新書)

これまで、アイヌはケルトやインディアンなどと同列に、自然と共生してどこか牧歌的な平和な民族と思い込まれていたが、そういう面ももちろんあるのだが、もう一つ別な面もある。ケルトはケルトで戦う民族でもあって、ヨ-ロッパを席巻していた時代、各地にその痕跡を残している。

話をアイヌに戻せば、交易や北からアザラシやラッコの毛皮を求めて南下するオホーツク人との戦いで劣勢になれば、南へ逃げたり、その激しい動きをする民族としての一面が『アイヌ学』(?)で語られ・書かれるようになった。人種系統樹を見ると祖先を縄文人に直接由来するのはアイヌと琉球人であることがわかる。和人(本州の日本人を北海道でよく使う)はどちらかというと大陸から渡ってきた渡来人ではないか。


恵庭 カリンバ(桜の皮のアイヌ語)遺跡出土

本州各地に残る『ナイ』とか『ベツ』の地名も、元々アイヌ語の影響を色濃く残し、東北に特に多い。しかし、この地名は長崎や佐賀にもあって、海の海賊『倭寇』も縄文アイヌではないかという説がある。日本海をずっと北上、いや山の中を山脈を渡り歩いて(マタギも縄文人?)、ずっと生きてきた。たまたま私の住む恵庭市に縄文時代の化石や飾り物・土器が頻出する。太平洋アイヌが私の住む近辺に数多く住んでいた時代もある。本州のある場所では和人と同化し、ある者は北へ戻ってきたのである。

さらに、中国側の資料によると、アイヌの天敵のようなオホーツク人(ギリヤーク)とアザラシとラッコや鮭の取り合いも激しく、ついにニヴフというオホーツク人(ギリヤーク)が元(げん)にアイヌの退治を頼んだ。元は1264年、1284年~1286年、毎年のようにアイヌと戦ったのである。元側は1万人、船が千艘、アイヌ側は数百人と言われている。(実際はこの数字はオーバーで実態は十分の一くらい)。1308年にアイヌは元に服属を申し入れた。当然、元との交易もあったし、次の明王朝でも交易は続いたのである。

日本史で習う元寇は1274年と1281年。同じような時期に、実は北海道でも元が南下してきていたのだ。教科書には書かれていない事件だ。13世紀でもアイヌは戦うアイヌであった。文化は必ずどこかの文化の影響を受けている、孤立した文化はないの法則を適用すると、アイヌの渦巻き文様もシベリアはじめ大陸の部族の文様にそっくりだ。実はヒグマの子供を秋に神へ送る儀式も初めは本土(和人)のイノシシを送る儀式を真似たとされる。冬眠する前の親熊を殺せば、自然に小熊が手に入り、それを秋までアイヌ部落で飼育し、秋の熊送りの儀式まで生かしておくというわけだ。イノシシがクマに変わった。北海道ではイノシシは手に入らないからだ。

北海道アイヌははるか遠くアムール川まで交易を広げている。中世の武家時代は、オオワシの尾羽が弓矢の矢羽として重宝されたし、武家屋敷の床に敷かれる皮もアザラシやラッコ・ヒグマ、オットセイやの海獣たちも貴重な交易品であった。アイヌは凄いスケールで生きのびてきたのである。

さらに出雲大社で有名な出雲は縄文人がもともと住んでいて、そこへ渡来人(中国の越を中心に)が合流して作られた場所だという説もある

  1. 勇払平野の景色の写真に、無数の窪みに雪が残った竪穴式住居群らしきものを見ました。規模の大きい群落のようでした。今以上に厳しい冬の北海道で多くの人が生きていた痕跡を今に伝える証拠写真ですね。海に近い平野を選ぶ理由は食料としての魚の捕獲なのでしょう。また簡易的住居は移動をしていた証拠でもありますね。モンゴルなどの遊牧民にも似ていますね。イマならキャンピングカー暮らしのようなものですね。

    • 千歳に縄文時代の規模壮大な住居跡地ありますね。お墓もありました。貝塚も美々にあります。キャンピングカーの発想、モンゴル遊牧民の住み方と同じです。食料の移動とともに住処を替える。いまは住処を替えないで、食料を運び、集められた場所に車で買いに行く・・ということになりました。そこに貨幣が出てきました。縄文時代は圧倒的に貧富の差は少なかったのも貨幣が発明されていなかったからでしょうね。時間的に弥生は短く、縄文文化が長いですから歴史再考しないと。

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です