パチンコ(下)から ミン・シン・リー
在日コリアンの一族の歴史を書いたアメリカ在住の作家 ミン・シン・リー。1910年の日韓合併から被支配の歴史と一家族の人生が大きく変わっていく。大阪の在日コリアン村に移住してからも一族の有為転変は、日本社会のぶ厚い差別の壁に阻まれて、職業の選択肢も狭まる。実業世界で成功している一族の子供ソロモンに向かって1989年、アメリカやヨーロッパ暮らしの長い日本人のカズがソロモンに言う。少し長いが引用する(同著下巻 289~290p) ジュダイとはソロモンのこと。

「ジュダイよ。ぜひこのことを理解しろ。自分はそのへんの人間と変わらないって自覚ほどみじめなものはない。自分は取り柄のない人間だと思うと情けなくなる。しかも日本っていう偉大な国ー俺の華々しい祖先の全員の生まれ故郷であるこの国では、全員がほかの全員と同じになりたいと思ってる。全員がだ。そのおかげで安心して暮らせる一方で、恐竜の村みたいなものでもある。絶滅しかけているってことだよ。自分の取り柄を磨いて、ほかの場所でそれを生かせ。おまえは若い、この国の真実を誰かが教えてやるべきだろう。日本がだめなのは戦争に負けたからじゃないし、何か悪いことをしたからでもない。日本がだめなのは、戦争が終わったからだ。この国では平和な時代になると、誰もが月並みが人間になりたがる。人と違っていることに怯えるんだよ。もう一つ、日本人のエリート層はイギリス人に、白色人種になりたがってるということだ。軽蔑すべき話、見当違いの妄想もいいところだ」


戦争についての見解は少し違うとは思う。しかし、日本人カズが言うのは、個人がほかの全員と同じになりたい、現代でいえば「村社会」批判なのである。官僚村・原発村・大学村・テレビ局村・コロナ利権村・電通村・自民党村・立憲民主村・医師会村・新聞社村・防衛省村・財務省村も強い。この中で小さな出世競争が(本人にとっては深刻な事態が)進行していて、世の中を根本的に変えていく、生き方が排除されてきてる。村の掟は下手したら弥生時代からあるのかもしれない。聖徳太子の17条憲法(604年)の第一条 2行目は教育の中で詳しく教えない。

・和をもって貴しとなす

・さからうこと無きを宗となせ

なんだか身もふたもない話になってしまったが、自由な思考を邪魔しているとしたら、どんどん捨てていきたいものである。村の掟が国を企業を食い尽くしている気がする。古い言葉だが、村八分という言葉を使うとよくわかる。学校内におけるいじめも大人社会の反映でもあるし、昨今の厚労省の会食会も参加しないと該当する課での村八分を恐れた参加していると捉えると、外の社会は二の次三の次、まずは自分が所属する集団と同じ行動をとらないといけない。

原作「パチンコ」(上・下)のストーリーは複雑で、ソロモンは尊敬するカズに捨てられ、父親の経営するパチンコの仕事に就くことで終る。物語はソロモンの母ソンジャが港町釜山の南に位置する小さな島、影島で生まれ育ち妊娠して大阪へやってくる。夫や子供たち兄弟が1910年から1989年まで79年にわたる一族史になっている。素晴らしい日本語翻訳であった。

 

 

  1. 寄らば大樹の陰とばかり群れたがる習性は、三密を避けるべきコロナ禍でさえも群れてしまう訳で、現に大阪も東京も京都も神戸も沖縄も第4波到来とばかりでマンボウ?とかで、オリンピック聖火リレーもままならず中止が出る始末。人間の体内を借りて増殖を続けるコロナ菌にとっては最高の天国ですね。つまり、人間の群れる習性をも真似ているのかも知れませんよ。

    • 密が蜜です。都市はウィルスにとって天国です。60ヘクタールの農家の御主人は「まったくコロナ関係ない」と昨年から宣言してます。村に住むといっても大規模農家同士、農協会館にでも集まらないと群れることさえできません。いま、村は都市に移動してます。メンタル村人です。

  2. 外国人から見た日本人は不思議な存在なのでしょうね。特に田舎に行けば行くほど昔からの慣習が残されていて、無言のうちにも守られていたりしますから、それを伝統と見るか?封建的と見るか?ですがね。でも最近では日本人の若者が嫌う伝統行事などに外国人が熱心に参加している姿も見受けられます。お互いに理解するには、先ずは言葉の壁を破って、盛んに交流するしかないのでしょうね。お互い旅行程度では本当の姿は見えませんからね。

    • 観光は無責任のところがいいのですね。税金払わず、そこの国民の義務もなくですからね。自分の青春時代、金沢や京都へ行きましたが、貧乏一人旅で10日間も動き回っていたと思いますが、海外旅行は、ツアー以外知らないですね。飛行機乗れないパニック持ちでもあるので。情けない。外から見たらどこの国も「オカシイヨ!」というところあるので、そこは寛容にいきたいところですが・・。

  3. 幼い頃、田舎でも在日朝鮮人への差別はありました。言葉が違うのでそれと直ぐにわかるため尚更でしたが、彼らの家族は肩身の狭い暮らしをしたと思いますよ。仕事も廃品業が多かったですね。子供の私たちでさえ「朝鮮人」とバカにした記憶があります。
    でも私たちが拾い集めたボルトや銅線や鉄くずなど金物類をいくらかで買ってくれて助かりましたね。お小遣いなど貰えなかった時代ですからね。

    • 職業の選択の幅が狭かったんですね。苗穂駅前にも密に住んでいる部落がありました。瓶や鉄・銅を集めていて、小学校のころに部落の中を通りました。ジロジロみられて怖かった記憶があります。戸はムシロだったと思います。豊平川の東橋の下です。札幌オリンピックのときここに道路ができて、彼らは厚別の市営団地に全員引っ越ししました。中学の社会科の先生が差別発言を平気でしてましたよ。

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