自然を相手にすると結果が出ないことに寛容になれる。
福岡伸一『生命の逆襲』(朝日新聞出版 19p)に、滋賀県でモンキアゲハを捕獲することに成功するが、しかし、この木にアゲハが来るか、来ないか、わくわくしてじっと待つ。飛ぶ蝶には『蝶道』があって、決められたところを飛ぶので、そこで待っていればいいが、網でうまく捕獲できるかはまた別問題。失敗することも多い。そういう体験を積むと、科学者にとって大事な資質は、何度も何度も繰り返すこと。『自然を相手にすると結果が出ないことに寛容になれる』。
以前に『窮鼠が成長したら猛虎になるかもしれない』というフランス文学者渡辺一夫さんの言葉を書いた。16世紀ヨーロッパの宗教戦争について『寛容』の価値が貶められ、批判の言葉を言うと殺されるような社会状況になぜなったかというブログを書いた。『自然』にあるのではと、福岡伸一さんのこの1行で思い至った。『言葉』や『集団』は、『反自然』ではないだろうかという、けっこう根本的な問題が見えてくる。『組織』も集団だとしたらフィクションで成立している。
ルターが出てきたのも『聖書の言葉』に帰れ。世俗の既得権益を墨守するカトリックの僧や王たちやバチカンに反旗を翻した。ラテン語でのみ読まれた特権言語をドイツ語に翻訳し、たくさんの信者が読めるようにした。コロナで使われるクラスターを日本語で『狭い集団での沢山の感染』でいいのでは思う。80歳の年寄りでもわかる言葉遣いをしてほしい。
教会は『言葉の殿堂(伝道師たちの集合)』で、鐘により時を告げたり、礼拝を義務化したり、洗礼で信者を増やしたり、既得権を守ってきた。民衆や宗教家、王家たち、役人や騎士たちが、夢物語ではあるけれども『自然の凄さ、自然に叶わない人間の無力感』を一度でもいいから、共通の感情を味わってみれば歴史が変わったかもしれないと妄想する筆者だ。言葉で相手に命令し、やらせて生きる、言葉で相手を苦しめて自分は楽をする、言葉で難しい法令をたくさん作り、国民に負担を強いる。
現代も『言葉』が乱脈に飛び交い、世界についても私は16世紀の宗教戦争の時代にタイムスリップしてるような気がずっとしていた。言葉に重きを置きすぎている気がしている。比例して、言葉・反自然・ときに非人間的な様相が家庭の中、学校の中、企業の中、役所の中、政治家の中、国と国の間で『自然を相手にすると結果が出ないことに寛容になれる』ではなくて『結果が出ないことに寛容になれない』自然を忘れた人間意識優先主義、市場経済蔓延、株主横暴、経営者のいらだちばかりが目立つ社会になってしまった。
倉本聰は木を植えている、ヴォルテールはまず『自分の庭を耕そう』とした。ルソーは『自然へ帰れ』と言ったが畑を耕さず別な畑を耕して私生児を作った。70万人が死んだリスボン大地震が、言葉と意識と聖書に覆われたヨーロッパに裸の自然を見せつけた。地震をきっかけに自然を相手にしてそれぞれの宗派が寛容になれたかもしれない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、すべては言葉優先で始まる。観念から現実を裁く、解釈する、(●●すべき)を提示する。しかし、自然はそんな人間の思惑をはるかに超える。天候を人間の力でどうなるものでもない。逃げるか避けるか諦めるか。
仕事で行き詰ったときとか、今月の厳しい数字がいかないときは、空を見上げたり、ヒラヒラ飛ぶ蝶を追ってみたり、空を流れる雲を見つめて五感を休めるといい。頭が言葉と意識で満杯になっている状態だからね。文字数少ない伝達は危険を孕む。相手への礼儀の言葉が省略されるから。私も若い人から脊髄反射的なメールを何度ももらったことがある。気をつけたい。
*2020年6月16日朝日新聞朝刊に福岡伸一さんの『動的平衡』(コロナ禍で見えた本質)と題された投稿があった。『自然を人間は制御し得ない』という当たり前の現実を語っていた。一番の身近な自然は生命としての自分自身の身体である。自分の生死や病を知ることはできない。こうなれば健康で長生きすると自分の意志を過剰に信仰(思い込み)しているに過ぎない。ある日突然、本来の自然が姿を見せる。圧倒的な存在感で!コロナウィルスのように。
坊主の孫。
人は自然の素晴らしさに感動し感謝して生きています。が、時折その事の意味を都合よく勘違いしたり忘れたりするのです。つまり自然はいつも人間の都合が良いものでは無いのです。むしろ逆かも知れません。人や動植物に厳しく存在するものなのかも知れませんね。「災害に遭えば自然を憎み、喉元過ぎれば忘れ」の繰り返しの歴史ですね。自然災害は時代さえ変える脅威です。人間も含め、小さな動植物には太刀打ちできません。最後に残るのは、目には見えずとも言葉や感情をも持たない繁殖力旺盛で貪欲な微生物だけかも知れませんね。
seto
都市に住むと反自然になりがちです。人口物の中で生きてますから。しかし、地面が揺れて、火山が噴火し、ウィルスが拡大し、空から雷や雨が降ったときに自然には叶わないと思うんでしょうね。人間、ミミズ1匹つくれません。生物の中で一番弱い存在として人がいるのでしょうね。いつも庭に来るスズメの夫婦を見ていて、この日この時間を餌探し。人の近くでないと生きられないスズメですから、人間がいなくなったらどうするんだろうか・・と想像します。でも彼らはづにかしますね。
昔の少年。
人間も自然の中の植物たちには貢献していますよ。ほんの僅かですけどね。植物たちにとって人間の吐く炭酸ガスが必要です。植物からは酸素を貰っていますから、ヒフティヒフティですけどね。しかし人間よりも胃を四つも持つ牛のゲップの方が、更に人間の数倍も貢献していますけどね。世界中の牛のゲップが余りにも多いので環境汚染が心配されるほどとか言われてもいますね。酪農王国の北海道も人ごとでは有りません。豊富あたりの国営ファームなどでは3000頭ほど放牧されていますからね。そんな大牧場が幾つもありますよね。一方クルマも電気自動車化が急速に進みつつありますが、生産過程ではまだまだ公害を輩出するのでしょうね。各国とも脱炭素を叫んではいますが、石炭火力を無くしても代替エネルギーだったはずの原発抑止で、これまでの水力に加えて太陽光や風力などにも限りがありそうですね。今後は電力消費を減らす社会づくりも並行して考えて行かなければいけないのでは無いでしょうか。太陽の恩恵が無くなり、氷河期到来や地球消滅などを予告する科学者は多いですね。それが一体いつなのか?は別として。
seto
人間の呼吸ですかね、酸素と二酸化炭素を出したり吐いたり、植物も苦合成で二酸化炭素を消費ですね。循環ですが、たくさんの哺乳動物も呼吸してます。空気の存在が凄すぎます。どうして空気があるのか、見えるのかと言った人へ「風が空気の存在を教えてくれる」と言いましたが、どうして酸素と二酸化炭素が作られたのか?CとOとHの組み合わせですが、どうしてこの組み合わせになってのでしょうか?氷の中にも古代の酸素や二酸化炭素が含まれています。空気の中に酸素が一定の割合で含まれていて、これが狂うと人間やほかの哺乳類の生命に影響ありますから、微妙なバランスの上に奇跡の配合で生きているわけですね。海水がバランスの主だと言う人もいるし、空や雲だと言う人もいる。油も石炭も元植物や生き物の死骸からできているわけで、それがなければ文明のスタートは切られないので、まずは植物からだと思います。