去年の私と今の私は別人です。2022年版
人間の体は、血液にしても細胞にしても、皮膚にしてもほぼ1年でがらりと変わってしまう。皮膚は下から新しい皮膚細胞が盛り上がり、垢となって風呂場へ消える。古い血液はどこにいくのだろうか?たぶん便として吐き出される。
心臓の筋肉も新しくなるというから、私が50歳のとき心筋梗塞を起こし、発見がヤブ医者のおかげで一日遅れて、ほぼ30%の心筋が壊死したが、専門医に聞くと「壊死した細胞は細胞分裂は起きない」とのことで20年が経過した。階段を上り下りすると息切れはするが、なんとか心臓の機能は果たしている。肝心な大脳細胞も細胞分裂を繰り返して、ほぼ1年ですっかり入れ替わる。(とはいえ最近は疲れやすい)
ということは、去年の私といまの私はすっかり、肉体が入れ替わっていて別人ではないかと思う。去年、ある金融機関から借りたお金は「去年の私が借りたので、今の私は大幅な細胞分裂で別人になっているのだから返す必要はない」とも極論では言える。しかし、これを認めれば、経済や国は成立しない。どんなに細胞分裂で何度も私が新しい自分になっても、同じ人と同定されることになる。
動的平衡の福岡伸一さんファンの人なら、この話が彼の著作に何度も出てくるから覚えているだろう。しかし、私がどうしてもわからないのは、こころとか精神とかはどうなっているのだろうかということだ。考え方や価値観や好き嫌いが肉体的な細胞分裂の繰り返しで、どのくらい変わるものなのか。また変わらないのか?「私は私だ」と思い込んでいる私たちに、その同一性は、常に揺らいでいるのだよと福岡伸一さんはパスカルの言葉を引用して書いていた。NHK 100分で名著 パンセ 148p
結婚のときのことを思い浮かべると、釣るまではエサをたくさん撒いたが、釣ってしまうとエサはやらないのはきっと私の細胞分裂のせいで、私が変わってしまったと言えばいいかもしれない。何でも細胞分裂に原因を求めると、自分の意思はどこへいくのだろうか。要は私は私のまま、生まれて死ぬまで、変わらない私だと言う幻想が歴史のどこかで入ってきたと思えば妙に私は納得する。そういう風にした、そういう制度にした。私は変わってはいけないのかもしれない。不自由な私である。しかし、これは妻側からも言えて「つき合ったときの貴方ではないし、私も変わった」と言えば妙に納得する。
ときどき、自分の意識や観念の世界から、「自分が脱出できればどんなに解放感を味わうだろう」と考えることがあるが、無理だ。夢の世界さえ現実が出てくるわけで、自意識の中でそれぞれが暮らしていると納得するしかない。自分の皮膚の中から出ることはできない。出ようとあがくのが芸術なのかもしれない。絵にしても彫刻や小説も、作り手が自分を表現しようとする以上に自分から出ようとしているように見える。
養老孟司さんが一日5分でも10分でも自然を見なさい、花を見たり、空を見上げたり、地面の虫を見たり、作物を手に取ったり勧めているわけは、意識の牢獄から瞬間的にも出て自然に入ることの大切さを言っているのだ。
人間の体はその年齢分の回数、入れ替わってると思うと不思議な感慨に襲われる。実はその答えは、一番上の図に回答がある。言葉や記憶や文字というツールが自己同一性を担保しているらしいのだ。特に記憶がキーマンだ。記憶もずるくて都合の悪いことは脇に置いてしまう傾向もあるから要注意だ。選ばれて記憶されていることも多いから客観性から遠い。主観の塊だということは覚えておきたい。
広告マン。
確かに、記憶がおぼつかなくなった今日は特に別人を感じますね。例えば買い物に行くには目的があって第一番目の目的とそうでない衝動に任せた目的を持って店舗に入った瞬間から第一番目の目的を忘れて衝動的になり、帰ってから気づくのは第一番目の目的をすっかり忘れていた事なんて事はしょっちゅうです。以前の自分であればそんな間違いはありませんでした。文字も殆ど正確には書けなくなっていますし、単なる老化と片づけられそうですが、細胞の変化でその活動も鈍くなっているのでしょうね。また都合の良い事は覚えていてもそっれ以外は殆ど思い出そうとしないのも事実です。ましてや外見から見えない脳細胞なんて事になれば日々かなりの変化をしているのでしょうね。怪人二十面相なんていましたが、我々も二十面相どころでは無いかも知れませんね。久しぶりに有った人に「随分イメージが変わったね」と言われた時には内心ドキッ!としました。他人は冷静な観察力で、その反面、自分は長い間も変わっていないと思い込んでいたと言う証拠ですね。
seto
久しぶりに札幌の町をぐるぐる回ってきました。記憶力はまあまあでした。40年営業していた町ですが、それでもビル街は変わってます。テナントは入れ替わるし、新陳代謝をする体と同じです。買い物もメモを書いていくのですが、そのメモを忘れてくることも頻繁にあります。私は「やせたね!」と言われます。ガンではないのかという含みですが、そうかもしれず、そうでないかもしれません。検査しないことにしました。昨年はガンでしたが、細胞が消えることもありますからね。近所の人もずいぶん老いたなあと感ずる人が大勢いますが、彼らから見たら私にも言えることでお互い様です。娘に1歳年上の兄の写真を見せたら「断然、パパが若々しい」と言われる言葉に励まされています。
昔の少年。
そうですね。年齢の回数だけ変身していますね。幼い頃もそうだったように高齢になるに従って、そのサイクルの速さに気づきます。つい一昨日にはすぐ近所のお爺さんが亡くなりました。施設に行って数日後の事で、ついこの前まで直接お話ししていただけに驚きました。何らかのシグナルで細胞が突然活動をやめたのでしょうね。コロナ禍で葬儀も家族葬との事でお花だけを贈りました。我々も健康な時には考えもしませんが、見えない所で絶えず細胞分裂や活動変化が行われているのでしょうね。
seto
今日食べたいものは食べ、したいことはして、見たいものは見て、会えるうちは会っておくというのが鉄則かもしれません。時間がたつと忘れています。思い立ったら吉日の意味が深くわかるようになりました。昨年開業した福岡からきた西鉄ホテルで1泊してきました。娘と孫を連れて。札幌の都心に泊まり、ノルベサと買い物、夕食は寿司とザンギ。都心のシティーホテルに初めて泊まりました。定山渓でもよかったのですが、買い物には面白くないので。車利用せずJRでした。白内障ですから、車やめました。1年で白内障がどんどん進んでいきます。手術は6月。眼科混んでいました。老人性ですよ。レンズ入れ替えです。大脳におかしい血管があれば目にも出るので怖いです。毎日毎日、更新される肉体ですが、時間経過しないと自覚の領域まできません。