・シナプスニューロン

9月1日に第1章を書いて、きょうは第2章。「生命の水路」と題されている。

F・ニーチェが落馬して負った傷が回復せず、視力は落ち、集中力も低下して、偏頭痛や吐き気の発作に苦しめられた。執筆活動も断念しなければというところにまで追いつめられ、そこでタイプライターを特注した。デンマークの国立ろうあ協会が製作したもので、ライティングボールと命名された。

ニーチェは目を閉じて指先の感覚だけで執筆できるようになった。新聞もニ-チェの執筆再開を報じたが、彼の親しい作曲家の友人はニーチエの文体にある変化があることに気づいた。文がタイト(きつく)になり、電報めいたものに近づいているが新たなパワー・力強さも備わっていた。

このマシーンのパワー(鉄)が何らかのメカニズムによって、乗り移り、言葉へと変化しているのではないかと。友人はニーチェへ「この器械によって、あなたは新しいイディオムさえ身に着けるでしょう」と書き記し、さらに友人は「自分の思考は(主に音符を扱う)、ペンと紙という性質によってしばしば規定されています」と。ニーチェの返答は「そのとおり、執筆の道具は、われわれの思考に参加するのです」。

同じころ、若い医学生のフロイトは魚類や甲殻類の神経組織の解剖をしていた。脳は他の器官同様、多くの別々な細胞から成り立ち、特に細胞間のすきま(接触境界)が脳の機能をつかさどる重要な役割を果たして、思考や記憶を形成していると提唱した。この接触境界は後にシナプスと呼ばれ、ニューロン間の伝達をスムースにさせると認識された。

頭蓋骨にはおよそ形や長さの違う1000億個のニューロンがある。これを結びつける無数のシナプスがあって、回路を形成し、何を感じるか、何を考えるかの働きをしている。現在、筆者がキーボードに向かって打っている文章も、自分の大脳のニュ-ロンやシナプスが働いているおかげで打てているのはいうまでもない。また当時の脳について、成人後、脳の構造は変化しないという定説もあった。たとえればコンクリートの型枠に入れる構造物のようだと。記憶はこの型枠の中に入れられ続け、その構造は変わらないと

しかし、一部の生物学者や神経学者は、成人の脳にも可塑性(plasticity)があると脳観察や実験で証明して見せた。脳は成人後も絶えず、新たな神経回路が作られたり、完全に委縮したりするものだと。アメリカの心理学の父ウィリアム・ジェイムスも「心理学の根本問題」とい本(1940年)で「神経組織には、きわめて大きな可塑性が与えられているように思われる」と書いていた。経験が脳に与える効果を強調した。

長々と書いたのは、インターネットという道具・経験が、私たちの脳の構造や思考や感情に大きな影響(その内容はいまは問わないが)を与え続けているはずだという予測の根拠を示したいがためであった。それは人間の行動や思考の変化にも当然、影響を与えている。脳に可塑性があるのは、小さな頃だけで、脳の白紙状態(タブラ・ラサ)に経験が書き込まれる、学ぶことを通じて獲得される。人間は育ち・経験の産物だという立場。一方、E・カントなどは、人間は生まれたときにすでに世界を認識したり、理解する理性を授かっている。経験はこの理性を通じて認識されるという立場だ。

しかし、著者のカーは脳の神経可塑性が一生を通じて働き続けることを論じる。視覚の喪失が大脳の視覚野の部位を聴覚や触覚の働きに乗っ取られていく。脳の可塑性が動き出すと。脳が大規模に組織変更を始めると言う。逆に人間の脳の構造が優れているのは、それが完全に出来上がった配線ではなく、それが存在しないからで、それであるがゆえに進化や適応ができたのだと。

私たちの行動や知覚や思考が、全面的に遺伝子によって決定されているのでもなく、子供時代の経験が全面的に決定するわけでもない。むしろどんな人生を送るかによって変化させていく。ニ-チェの言うとおり「どんな道具を使うのかによって」。

さらに、この神経可塑性は、一度できた新しい状態にしがみつきやすいという性質がある。可塑性はあるが弾力性がないのが難点だ。パチンコ依存症や薬物依存やアルコール依存、スマホやゲーム依存もここから説明ができるかもしれないが、インターネット依存をなんとなく予告されてるような気も第2章まで読んで感じたところで、2回目は終えたい。自分たちにありがちな過去の成功体験依存(しがみつきやすさ)もそのような脳の働きではないかと筆者は想像する。しかし、生きている以上、何かの依存がそれぞれ必ずある。もちろん仕事依存、ブログ依存を含めてね。第3章は近日公開予定「精神の道具」。

明日のブログは、鮭の密漁とナマコです。

 

  1. ある時期、具合が悪くなり、その都度救急窓口に行って頭を調べてもらった。運転中にも眠気が差して頭に輪っかを載せているような気分になり脳神経外科の救急窓口に直行したりした。「救急です!」、「どなたですか?」、「僕です!すぐ診てください!」と。さすがに救急対応は早く10分もしないうちにCTスキャンなどの処置をしてくれる。処置後しばらくして医師が僕の脳の写真を見せてくれて説明がある。小さな白点のようなものを見つけて質問すると「年齢的なものですよ」といわれ、納得?した。「もっと具合の悪い時に来てくださいね」と言われ元気になって帰ったものだ。放射線や音波での処置は脳に悪いとかも聞くが年齢的にも機会に例えれば故障するかも知れない時期に間違いないので、自ら小まめに診てもらうように心がけている。時折、自分の脳の輪切り写真を見たくなるのは僕だけだろうか?。

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