ブログ90本記念に書きました。2021年4月30日に立花隆さん死去。

きょう、NHK午後10時から彼のドキュメンタリーを放映していた。1周忌だ。

筑摩文庫で買えるようになりました。

お陰様で3月18日から始まった「太古につながる生活者の目」というブログが90本目を迎えることになりました。途中から読み始めた読者もいらっしゃるかもしれませんので、3月20日に書いた記事を再録して、原点に帰ろうと思います。2度目の方はスルーして構いません。

前回は、「知の考古学」という雑誌の巻頭言から、この題名の由来について書かせてもらいましたが、今回は、立花隆さんの「エーゲ」(永遠回帰の海)(書籍情報社)からの引用になります。ページも列記します。

20年を費やして完成したカメラマン須田慎太郎さんとのコラボ本ですが、その序にイタリアのシチリア島セリヌンテ神殿群を前にして「突如として私は、自分がこれまで歴史というものをどこか根本的なところで思い違いをしていたのに違いないと思いはじめていた。知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料のなかに遺されている歴史。それらはすべてフェイクである。最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか」(45頁)

「記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑み込まれてある」(46頁)

立花隆さん30歳のとき、地元の人も誰もいない遺跡群を前にして突如、湧き上がった感慨でした。自分たちの日常を考えればあたりまえのことですが。昨日のこと・現実はすべて表現はできない、表現するときは多くの何かを捨てている。数量化の比喩を使えば1%の現実を表現するのに99%の現実を捨てている。この繰り返しが歴史なのではあるまいか。

日常の暮らしのなかで、会社であれ、家庭であれ、事件のなかにも、捨てられたものがたくさんあって、そのおかげでいまの自分がいるのではあるまいか。記録されなかった現実の総体が、実は、意図的または気づきもなく捨てられた現実でもある。その人がそこにいるということは、そこにいない人を山のように抱えているのだ。歴史はそういうものを丸抱えしたなんだか分析なり、調理を許さない、歴史学を嫌う生き物に見えてくるのは、私の妄想だろうか。現代にも、現代だからこそ、見つめていい視点ではないのか。それが時代を超えて太古の人ともつながる早道、深いところで共感できる生活者の目のような気がする。

*追記・・・ブログ7年目に入り、毎日書き続けているがいつまで続けられるか不安。本屋へ行けば、それぞれの関心どころの著作は並んでいるし、センセーショナルな見出しの週刊誌も、ついつい立ち読みをしてしまう。電車に乗れば、スマホ族がずらりと下を向いてゲームや友人と文字交換。サイバー空間で生きている。ハッカーたちはサイバー戦争を毎秒している。私たちのライフラインに入り込まなければと願うだけだ。それにしても「エーゲ」の完成まで22年かかっている。

  1. 便利すぎる世の中ですから、物事のすべては既に用意されていたり、準備されていたりしますから、それにうまく乗っかれる若者や子供たちは先の世界に向かっていますね。孫たちはオンラインゲームを通して友人たちとはもとより、知らない仲間や、ともすれば中国など外国とさえやり取りしています。むしろ我々は昔からの歴史や物事は習って知っている筈ですが、現代の進化にはなかなか馴染めない一面があります。そんな現代社会でも一刻一刻と歴史は刻まれているのでしょう。いくら発達した現代でも、それら全てを記録する事などはしないでしょうから、都合の良い事の記録以外の大半は忘れ去られてしまうのでしょうね。ましてや太古の昔の歴史を語るには相当な無理があると思いますね。現代まで残された数少ない遺物からの想像や推測で作られた歴史感を習っていますから誰も真実は知らない訳ですね。或る考古学者が自ら土偶のようなものをこっそり埋めて発掘したとの虚偽の研究発表をしようとした事件もありましたが、その現場を撮ってすっぱ抜いた新聞記者は私の友人の同僚でした。しかし現実に嫌気をさした彼はその後は記者を辞め全く違う世界で、今や整体師になって居ます。歴史研究家のウソが彼の人生を変えました。

    • 土器を古く見せて(泥をつけて再度埋めた事件ですね)、あれで全国の教科書の縄文部分の考古学の記事が全面書き換えになってしまいました。あれって病気ですね。名誉欲に駆られて、一度の成功に気をよくしたんでしょうが、お粗末な学会ともいえます。世間知らずというか、見つからないと悪いことをする学者。データ改ざんも北大であって「サイエンス」の論文を取り下げた事件が一昨日ありました。歴史ってフェイクであることは間違いありません。受験生用の歴史ではないのですから。ウクライナロシアの戦争も実際、そそのかしたのはアメリカかもしれないと書く人がボチボチ出てきました。真相はわからないです、時間経過しないと。経過してもわからない、そういうことって多いです。エーゲは、誰も見に来ない遺跡を前に2時間も3時間も黙って座って座っていて、この遺跡について誰も関心なくて、しかし、存在感はあって、たくさんの人たちが住んで暮らした跡がある。しかし、何も書かれていない。それがふつうの日常でないか?現代はSNSで自分を表現する人は多いけれど、自分にとって都合の悪きことは隠したり、嘘をついて、書いてる、発信している。自慢話だけ語ってる、ヘイトしている、そんなふうに見えませんか?

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