平取を目指すイザベラ・バード

明治11年(1878年)に北海道(蝦夷地)を旅した英国の旅行家イザベラー・ルーシー・バード「日本奥地紀行3 北海道・アイヌの世界」(平凡社 東洋文庫)の中に、「600万人の扶養が可能とみられるこの地域(作物の点から)にはわずかに12万3000人の人々が散在しているにすぎない。」(23p)とある。

当時、政府は人口過剰とみられる(本州の)地域からの移住、二つ目はロシアから侵略的な構想に対する堡塁を築くため屯田兵の入植を図っていた。144年前に予測された人口には届かないが、2022年現在、北海道の人口は約519万人で近い数字といえば近い。伊藤という通訳兼助手と馬に乗り、女性の一人旅を安全にできたものだと感心する。英国領事が開拓使長官黒田清隆に掛け合い、旅に関して最善の扱いをせよという公文書を持参してたので、安全な旅になった。

それにしてもこの本は、北海道観光の案内コピーより数百倍も魅力的な文章が続く。内部の人間が書くより、外部の人間が表現するほうが的確な観察をされる。アイヌ語の収集、沙流川の船遊び、自然描写が細やかだ。アイヌ部落の男女の身長まで計っている。繰り返し出てくるのはアイヌの微笑の素晴らしさが書かれている。

「日本奥地紀行」に戻ると、平取町でアイヌコタンの酋長の家に2泊3日宿泊。「彼らはこれまで外国の女性を目にしたこともなく・・・日本人とは違い、集まってくることもなければじろじろみることもない。・・・この3日間、自分たちの日常の生活や仕事を続けながら、礼儀正しくまた親切にもてなしてくれた。朝から晩までこの部屋で生活をともにしてきたけれども、細事に至るまで不快な思いをすることは何もなかった」(79p)日本奥地紀行は本国の妹(ヘニー)へ書いた書簡だ。

とはいえ酋長の母親(80歳)だけは、それが一族にとって不吉な来訪を感じるのか「私をじっと監視している」ようだと書いていた。アイヌの酋長たちは知る限りの自分たちの習俗についてイザベラバードには話すが「日本の政府(開拓使)にはどうか告げないでください。そんなことをなさるとやっかいなことになります」。それにしてもアングロサクソン(英・米)が植民地主義とはいえ、地球上の各所へ探険・記述・風俗研究をして、将来はそれを生かして統治の材料にすることもできる生き方はすごい。それを国を挙げて支援している。国民性までいい意味でも悪い意味でも暴かれるわけだ、もちろん彼らの価値観に基づいてだけれども。彼女も敬虔なキリスト教徒である。函館では布教活動の手伝いもする。

さらに平取アイヌの副酋長から、「外国の人には一切見せてこなかった私たちの神社(テンプル)」を見せてもらうことになる。義経神社である。内陸アイヌの間で義経が自分たちに親切だったことが語り継がれていたのである。簡素な白木の神社で一つの像が収まっている。象眼のある真鍮の鎧を着て、金属製の御幣を手にしている。(同著 98p)

  1. 義経の北海道逃避説は事実のような記録ですね。事実とすれば義経の最後はアイヌの人たちとの親密な交流があった訳ですね。英国の旅行家イザベラー・ルーシー・バード女史にしても義経にしても、アイヌの人たちとの間には人種差別的な考え方は余り無かったようですね。むしろ蝦夷討伐などと本土の人間たちは鎖国状態のままの考えで差別していたのでしょうね。行動範囲の広い半狩猟民族と、定住農耕民族の考え方の違いも関係しているのでしょうか。そう言えばアイヌの人たちの表情は彫りが深く体格も良く外国人にとっては自分たちにも近い親しみやすい風貌だったのかも知れませんね。独自の言語も特徴的ですね。

    • イザベラバードも非キリスト教徒へはやっぱり野蛮人という認識はありあすね。随所に野蛮人と言う訳語が出てきます。アメリカ東部でもアジア人がいまでも蔑視されていると同じです。中国・韓国・日本人の区別なんてされません。東部がアメリカ発祥の地ですから根深いです。義経はどうなんでしょう?岩に義経の名前がついたのがありますが、アイヌの人たちが義経伝説を広めたかもしれないという仮説は成り立ちますね。彼女が泊まった酋長の家に本妻がいて子供生まれず、毎日夜なべではたを織り、元気がない、一方、子供を産んだ二人目の妻のはしゃぎぶりに言及して、本妻へ同情の言葉が書かれていました。この酋長へは良く書いてませんね。

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