第二次世界大戦は日・独・伊の敗北で終わったわけだが、ドイツの思想家エンツェンス・ベルガー『何よりだめなドイツ』(晶文社)を学生時代に読んだ。手元に本はないが、当時のテレビは『コンバット』、映画は『ノルマンジー大作戦』が大ヒットして世界中で鑑賞された。

『何よりダメなドイツ』の中に、英語帝国主義という表題の作品があって、『なるほど、アングロサクソンは母国が英語圏で、生まれながらにして母国語を話し、何をやるにしても、どこへ行くにしても100メートル走なら、すでにスタート地点が50メートルから走る競技だ。同じ平面で走るならまず英語を学んでからにしなさい』という価値観を子どものころから無意識のうちに洗脳される。パソコンやアメリカの軍事技術の民生使用から始まったインターネットも英語から始まった。

私の受けた英語教育は、会話より文法や英文和訳ばかりで10年学んで、日常、旅人から方向を聞かれて答える程度の英語力だ。大学でドイツ語や中国語をかじるようになって、また北海道は隣はロシア、アイヌ民族もいる、華僑もいる、朝鮮の人たもいる。そこで大学3年のときに『そうだ文部省に入り、英語の義務教育は廃止して、中学から多言語教育を選択性にして外国語が必要ない人は日本語をきれいに話せる授業がいい』と4年生を何度も落第した身でありながら『国家公務員の上級』を受けて、志願理由に英語の義務教育の廃止と他言語選択導入を書いたが、不合格であった。

思うに、言語の持つ不平等が400年以上続いていやしないか?そしてIT関係のパソコンが普及するにつれて加速度的に、英語・英語と幼稚園にまで遊びながらの英語の授業がある。ギリシャ語に始まり、ラテン語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、英語、ケルト語、スペイン語、ポルトガル語、中国語、アラビア語、ハングル、ロシア語。まだまだ現地に根ざす言語はたくさんある。言葉にはそこで暮らさないと伝わらない大事なニュアンスというものもある。

しかし、英語はブルドーザーだ。地球の狭い表面を走りまわっている。そして彼らの声が異様にでかいときている。ワールドカップ札幌大会で《イングランドVSアルゼンチン》の試合をダフ屋から購入して見に行った。フォークランド紛争とアルゼンチン経済の大不況で応援団がアルゼンチンサポーターがさっぱりいない中、筆者はアルゼンチンの応援側に回ったが、イングランドサポーターの声のでかいことといったら嵐の中を叫ぶバイキングの声である。体の大きさも違う。ベッカムのコーナーキックも見た。そんなことより、集団化したときのイングランド人の声の暴力を身近に感じたものである。フーリガンと呼ばれる一団で日ごろから声出しを訓練しているとはいえ、すさまじい。札幌の街中、イングランド人が溢れて大通り公園やJR千歳線も2日間、イングランド劇場になった。英語帝国主義を書きながらワールドカップのあの日を思い出した。このテーマは再度機会を改めたい。アメリカの大リーグを見ていても、観衆の声の大きさに筆者は同様なものを感じるのである。アングロサクソンの圧政を感じる。

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