擬態を繰り返して。
有名な擬態はカマキリで枝に似せて止まっていて、餌が来ると食べてしまう。てっきり敵は枝だと思って近づいたのに。「ナマケモノに意義がある」(角川新書 池田清彦126p)南米のナマケモノはぶらーりぶら下がって生涯を送る。農業を始める前の人類も一日3時間くらい、狩猟採集をして生きてこれた。
慌ただしく現代人は、世渡りのために擬態を繰り返して、「私はここにいるわよ」!と他者へ合図を送って生きている。スーツトネクタイを着て「私は会社員よ」、制服を着ているスッチーや看護師もね。制服は擬態といえなくもない。家に帰れば、主人の擬態や父親の擬態、娘や妻の擬態をする。「らしく振る舞う」。
昔、倫理学を習っていたときペルソナ(仮面)の集合が人間だと教えられたことを思い出した。そこでの役割自己の集合が自分だと。果たしてそうかなあともいまなら思う。池田さんはこう言う。「ところで、擬態を取っ払った後にはオリジナルの本人が現れるのだろうか。」
擬態を剥いでもその下に別な擬態というふうに、擬態の皮を剥いていくとラッキョウのように最後まで皮だったということになるんじゃないか。本当の私を探す旅がうまくいかないのは、この旅がラッキョウの皮を剥ぐ旅だったかもしれないね」(同129p)。
自己ってほんとうはこう考えると何も無くなるような気もしてくる。会社員だって、別に自分がいなくても経営や仕事に差し障りがないしね。たとえ経営者が突然の事故で逝去しても、そこそこの規模の会社なら代わりがいるしね。擬態を繰り返すうちに「それらしくなってくる」(仮面が張りつく)ものだ。
社長を長くしていると、だんだん喋り方もそれらしくなってくるもので、不思議だ。クラス会でも建設会社を経営している奴は威張っていても、ちゃんと二次会では奢るよね、偉い!(助かる)。でもこの擬態をいつかは外す時が来る。退職だ。定年だ。
しかし、これがスムースに取れない、外せない。無理もない。40年近くかぶっていた擬態だもの。勤めているわけではないのにスーツを着て、電車・地下鉄に乗り、ひとりカラオケに通う人を知っている。この擬態が落ち着くんだね。奥さんもご主人が外出して喜ぶと本人は言っていた。亭主ATMが一番らしい。34歳の娘が早くもそう語る。恐るべし女性人。
さらに、老人ホームで嫌われる元の職業は社長さんと大学の先生だと老人ホーム関係者は経験則から言っていた。擬態(癖)が取れないんだ。「おーい、早くオマルを持ってこい!」と叫ぶ。ありがとうを言わない。こうはなりたくないものだ。
昔の少年
擬態って身近にも、いろいろあるんですね。つまり、みんな「成りすまし」ですか。恋愛時代はお互い成りすましていて一緒になれば本性が現れるとか、惚れてみれば、実は「ニューハーフ」だったなんてこともあるやも。現代の社会人は大抵一人何役もこなしている場合がありますね。どれが本当の自分かさえ判らなくなるほど。保護色と同じでその場その場に馴染むと居心地がいいからでしょうね。染まらない骨のある人ってめったに居ませんね。国会中継見ていて与党の中でも反対意見があるはずなのにみんな擬態化して意思統一されてしまう。自分可愛さに身を守るタコやイカじゃあ無いんですから。身を守ってくれると思って入った与党連合の蛸壺は、実は最初からロープがついていて引き上げられ権力者に食べられる運命ですからね。野党もバラバラ過ぎてまとまらないから、政治のあり方に根本的問題があると思う。スポーツもそうだが、大きくて強いほうが勝つゲームはちっとも面白くも無い。当たり前だからだ。これならせめて同じ体格で戦うか、政治であれば与・野党同人数で同じ土俵で戦うかしなければ。かつての日本の国技のように。