哲学入門

「哲学個人授業」「殺し文句から入る哲学入門・ちくま文庫210p」に鷲田清一が「はたして僕らはどれだけ自分で考えているのか、という疑問がわく。たとえ誰かが言ったことについての研究でなくても、考えることというのはほとんどが誰かの引用で成り立っているんですよ。言葉そのものが、自分で作りだしたものではない。ロラン・バルトは(引用の織物)という言葉を使うけど、僕らが自分のオリジナルな思考だと思っているものは、みんな引用の織物にすぎない。概念も言葉もすでにあるところに僕らは生まれおちて、そこで育ってきた。僕が発明した言葉なんてひとつもないし、概念もない」。

深いなあ・・。私のブログだっていろんな人の引用から成り立っていて、そこがなければ私は書いていない。発明する言葉があればそれは狂人の部類に入る言語で、他者へは翻訳できないものだ。現代詩の世界には残っていると思うが。そういう世界で、果たしてオリジナルの思想ってあるのだろうか?小説も映画も必ず、お手本になる祖型がある。同じ作家や思想家のものを読み続けるといつのまにかその人の影響を受けて言葉使いまで似てくる。映画なら原作があったり、その原作も誰かの祖形から借りてきたものかもしれない。

「プラトン」の項目「パイドロス」に書かれてることなんだけど、ソクラテスがパイドロスに「書いた文字は人をだますぞ、大事なのは対話なんだ」と生の声を書き文字の上に置いているところだね。概念を持たない少数民族は、神話を、民族の歴史を語り部として驚異的な記憶力で保存してきた。その神話が代々伝えられて子供たちは聞かされた。

アイヌのユーカラもそうだ。声として音として残った。文字が入ってくると、文字を操る人が権力を握るようになる。中国でも書記とか、宦官が多かったけど。エジプトでも官僚が誕生していた。官僚の起源は紀元前にさかのぼるほど古い。ということは残された文字が、次の代に参考にされて、判断の基礎にされたと十分考えれてる。裁判でいう判例というやつに似ている。

こうなると、声の世界も、文字の世界もいったいオリジナル性がどこにあるんだろう?東京オリンピックのエンブレムの模倣で佐野氏が大バッシングを受けていたが、私も広告代理店の営業を長くしていてわかるけど、デザイナーはパクリ常習が多かった。ただ、インターネットがなかったから専門誌やデザイン雑誌を見ながら、部分を変えたり、トレース紙でなぞってたりしていた。広告コピーも言葉を一つ二つ変えたりして、ローカル広告代理店では平気で使っていた。今回の騒動で有名なデザイナーのとおり一遍の佐野氏への批判は出てきたが、地方在住の無名のデザイナーの生の声はさすがにメディアに掲載されていないから私は書いた。許されたい。

大阪万博のときの岡本太郎にしたって、あれをオリジナルの典型と言う人もいるけど、縄文土器がなければインスピレーションが触発されなかったわけだし、祖型は土に埋めてあった土器だ。それがオリジナルになるわけで、制作者は無名です。オリジナルなオリジナルを作るのは至難だ。テレビ局だって、局同士、パクリあって似たり寄ったりの企画のオンパレードしている。佐野さんのニュースを批判的に流す資格なんてないと思いませんか?どこもかしこも情けない限り。

2009年、札幌雪まつりのポスターでも選ばれたのがアメリカのカリスマ主婦マーサ・スチュワートから盗用、電通北海道は1年間、札幌市への出入り禁止事件があった。いまは、制作も外部スタッフへ丸投げが多い。人件費の面で社内に正社員を抱えず(媒体や代理店より優秀な人間がたくさんいる)外部スタッフを安く使うことが当たり前になっている。まだまだ、各地でこういう事件はきっと起きる。二つ三つのアイディアを組み合わせて別なデザインらしきものを作る。私がデザイナーなら時間に追われたら、同じようなことをする誘惑に駆られると思う。

オリンピックという言葉さえ商表登録されて使えない。報道以外はダメというルール。誰がこんなことを決めたのか?IOCもふざけた組織で、いっそう「今回の東京オリンピック返上します」と大恥をかいた方がこの国にとっていいかも。金まみれ・放映権料の高騰で儲かるIOCと電通とゼネコン・競技OBたちの暮らしアップ。誰のためのオリンピックか。そんなことやるよりシリヤやアフガニスタン・アフリカからの難民を解決したり、東日本震災の避難民に幸せな暮らしの安定を図るのが国家ではないだろうか。中国・韓国との外交関係を良好にしたり。まずい政治(家)は必ず、スポーツやパレードを利用する。芸能人も利用される。ローマ時代のパンとサーカスと変わりない。

表題のオリジナルという話題からずいぶん脱線してしまった。申し訳ない。

きょうから5連休なので、ブログテーマの予定を書きます。自分の都合に合わせてお読みください。

2月20日 緊急 国勢調査に物申す 

2月21日 他人をコントロールするということ

2月22日 死去年齢(41歳~60歳)を調べてみた。

 

  1. 脱線も自然な流れでオリジナルかも知れませんね。創作はその人の個性が表現される訳で、似たモノがあれば模倣扱いされるでしょう。これも自然な流れです。好みのモノばかり読んだり見たり食べたり、興味のある事をして人間は出来上がります。そうすれば好みが偏り、あたかも自分の自慢の個性と思うでしょう。環境によって人は変わり考えも変わりますね。僕も若かりし頃に油彩を始めた頃はセザンヌやルノアールの裸婦の作品の模写から始めました。セザンヌやルノアールなら間違いなく万人のお墨付きと言う事と裸婦にも興味があった訳です。興味のあるものには熱中できます。いくらかでも本物に似ていれば満足で、次のステップは印象派の画家の作品が教材になったりして自分もオリジナルを描きたく成っていきます。その過程は全く模倣から始まります。あるデザイナー仲間が東京で著名デザイナーの事務所に居たとのふれこみで自慢話を聞かされていましたが(なぜ辞めたのか?不明です)暫く同じ事務所で働く事になって気づいたのは、著名デザイナーの大先生と全く同じパターンの幾何学模様の作風でポスターを制作。そこには誰の目にも模倣としか見えませんでした。アニメなどは流れ作業で多くのスタッフで仕上げます。原画は存在しても一人ではできません。原作者のチェックや監修で作品になります。今回のオリンピックのエンブレム騒動などもありましたが、必ずしも著名作家自ら作品を制作したものなのかは不明です。弟子(部下)に指示して制作したとして、そこからまた誰かほかの手に渡されるとなれば、最終チェックが甘ければ盗作問題にまで発展する可能性も生まれるでしょう。最初から「著名」にこだわらず「オリジナル」にこだわっていれば問題は未然に防げたのかも知れません。例えば既成概念のない子供たちの手で書かれたものなどをモチーフにしたデザインの応募作品など。これも親や教師が手を貸せば問題は複雑になりそうですが。

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