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河合隼雄「こころの処方箋」(新潮文庫)の2番目に出てくるから、読まれた方も多いと思う。ひとついいことがあれば、次は(裏に)わるいことが出てきたりする。

事業で大金持ちになったはいいが、親戚・友人・金融機関がどっと押しかけてきて、お金持になる以前の方が夫婦関係が良かったとか。私も57歳のときに娘の教育ローンと住宅ローンが終わり「いまの会社を辞めようか」と思ったら、運悪く、息子が大学を落第してもう2年在学することになった。

授業料の支払いと仕送りで再度、頑張らなければならなくなった。今考えると、落第してくれたおかげで、会社人生が3年長くなって、無事に60歳を迎えることができたともいえる。とはいえ、河合さんはふたつよいことが重なる場合もまれにあるから、絶対的な真理でもないから注意してねという。悪いことが連続で重なるときもある。

ただ、私思うに、思い返すときの自分の今の境遇が、そこそこ満足のいく心境のときには、この俚諺があてはまるけど、全然、今が幸せ感がないときは、客観的に自分をみる余裕はないかもしれない。ある時期まで、社長のお目にかなって順調に出世して、次の社長になったら飛ばされることはサラリーマンなら常態のこと。悔しいだろうけど「ふたつよいこと さてないものよ」と思って生きられて給与をもらってるだけありがたいと思えばいい。

この表題に「病気」の話も出てくる。病気は天からの休暇サインという話もでてくる。50歳のときに気に食わない社長が赴任し、筆者はストレスもピークで急性心筋梗塞で搬送されたが、80日間の不在(入院)で、中小企業にもかかわらず、首にもならずいられたのは、あの嫌いな社長の鈍感さゆえかもしれないとも思う、確認はしていないが。どこでいいことと悪いことが交錯しているかわかったものではない。

私の母も「足して引いてゼロが人生」と口癖のように言ったが、それにも半分真実はあるだろうけど、現代は理不尽な死が多過ぎて(地震など天変地異による死、爆撃やテロによる死、暴走車による死、ストーカーによる殺人、わけがわからない死、病院の中での手術失敗死など)、事件後、何かいいことがあろうとも考えられない「ふたつも みっつも悪いことばかり」の事件が多過ぎて、河合さんの「ふたつよいこと さてないものよ」にはどこか牧歌的な時代の格言のようにも感じられるのだ。

  1. 良い事ばかりが続けば、それに越した事は無いし、苦労せずに稼げれば暮らしも落ち着くのですが、自分の場合はフリーランスで毎日街中を徒歩で営業し、四畳半一間の下宿で徹夜も珍しくない貧乏なその日暮らしに疲れ果て、ジックリ勉強する時間もない毎日にピリオドを打つ為に、大っ嫌いだったサラリーマンに落ち着く事にしました。その頃、丁度結婚も考えて居たので暮らしの安定には毎月決まった給与、しかも賞与のおまけつきの暮らしは最高でした。暮らしは安定し、精神面ではすっかり楽になりましたが、反面これまで経験しなかった社内の人間関係には気を使いました。それが原因で転職もしましたが、何処に行っても人間関係の難しさからは逃れられませんでした。いい人だと思って居ても、正反対だったり、自分にとって後々敵対する結果になったりと人間ほど難しい生き物は無いですね。そんな精神面でのプレッシャーなどが病気の原因にもなりますね。胃潰瘍とかふらついたり、過呼吸になったり、と。しかし皮肉にも倒産劇に巻き込まれ職を失った事が良い結果をもたらしてくれました。暫くして体調も回復し、フリーを足掛かりに再就職にも恵まれ、再出発の足掛かりになりました。その後も紆余曲折の生き方ですが、悪い事の後には、いつか良い事も現れる事を信じて居たいですね。

    • 大学生を7年やって退学。バイトばかりの学生時代、好きな哲学書を読んではいましたが、いざ就職となると履歴書出しても戻ってくるばかり。新聞社や通信社の記者ねらいでしたが。いま考えると彼らは「損クジ」を引いたね、私を採用すればおもろい記事をたくさん書いたのにねと思いますね。自信たっぷりでしたね。勤め先見つからず、地元広告代理店の営業職について結婚。が、倒産の噂が走り、道内の議会議事録をつくる会社に転職。そこで始まった女子社員の首切り騒動。私は組合を作り、1年間民事裁判、そのときの弁護士が後の札幌市長上田文雄。勝ちましたが、疲れたので知り合いの生保職員のあっせんで生保営業。騙されたと思って、夜は転職のために免許証取るため自動車学校へ。32歳で仮免2度落ち、いまでも運転が下手です。結婚して4つ目が62歳まで在籍した新聞社系の広告会社。総合広告代理店の厳しさを知っていたから、走り回ってルンルン営業をしてました。20代の新聞社の若手と知恵を出し合って新しい企画やスポンサー探しをしました。数えきれない企業へ飛び込みをしてきた。そしてスポンサーもバブル崩壊時に3人、自ら自死しました。私が無理して広告を頼んだことが遠因ではなかったかと反省もします。聞くと億単位の負債であったと知りましたが・・・・。その後、70歳まで新人営業研修や新規スポンサー探しで2社に呼ばれて仕事をしましたが、何が良くて何が悪いか判断が付きません。これからも何が起きるかわかりません。私が死んだ後も子供や孫の身に何があるかわかりません。果たして直下型地震を川崎の兄、越谷の妹たちが切り抜けられるか。友人たちへは食料豊富な他都市に中古の住処をもう一つ持つ必要、生き延びるためにアドバイスしてますが、現実感薄いですね。大脳がそういう事態を受け入れられないのでしょう。日本の歴史を見ても、平安が終わったのも地震と飢え、江戸時代も地震と飢え。異常な首都圏集中続いてますから、災害規模は、死者数は計り知れない(メディアは小さな死者数で抑えていますから)。水もなく食料なくしてどうやって首都圏の人間は生き延びれると思ってるのでしょうか?不思議でなりません。せめて公園にたくさん井戸づくりをしないとまずいですね。電力消費して遊んでいる場合ではないですね。

  2. 地震が頻発していますが、昨日の朝は胆振で、今朝も東北でと全国各地で大地震の予兆かと思わせる不安な毎日ですね。首都圏と言えば姉が二人とその姪っ子や甥っ子達が住んで居ますが、心配ですね。戦災で疎開経験の有る姉たちですが、何故か?、また故郷の東京に戻りました。私は田舎育ちですから、遊びには行きましたが、東京に住みたいとは思いませんでした。確かに東京には何でもあって、良い思いもしたでしょうが、災害には脆弱な都市だと思いますね。それに比べて田舎は不便な事も多い代わりに災害時には逃げる場所や食料や水の調達が可能ですから、その点は或る程度安心できますね。さらに田舎に住めば、食糧の自給自足さえ可能ですから、若い人達の中にも、移住者が増えているのも分かる気がしますね。

    • 昨日,養老孟子と斎藤幸平さんの対談を聞いていて「哲学とは何か」、養老さん、もう大地震を想定して生きないとまずいと言ってましたね。勤め先は地方に住む・勤務するのをすすめてました。そして井戸の必要性を強調してます。昔の少年さんが以前、首都圏の高層ビルやマンションを墓場の墓石に見えると書いてきたことがあります。私もコンクリートとガラスの雨が空から降り注ぐ光景が見えます。CGの世界ではなくそれが現実の世界になります。首都圏をどんどん離れて生活しないと大変なことになりますよ。老人と貧乏人はここでも取り残されます。高速道路や国道が寸断されると流通止まり、餓死者が出ること考えているのでしょうか?快楽文明のなれの果てにならなければいいのですが。

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