ウィルタ(旧名オロッコ)の平等観
司馬遼太郎の「オホーツク街道」を読んでいたら、(モヨロ貝塚)を発見した人たちの話、そこに定住していたオホーツク海を南下してきた、木の実や魚介類の採取で暮らしてきたウィルタ(オロッコ)の姿を書いていた。道内で一人になってしまったウィルタの北川アイ子さんを訪ねに行く司馬さんだった。ウィルタはトナカイ遊牧を営み狩猟と漁労で暮らす民族で樺太に750人いたが、その一部が戦後引き揚げて網走に住んでいたのだという。ウィルタは「争いをせず、戦いをしないこと、上下がなく階級を知らないこと、私有の観念を持たず、すべてのものを共有すること、また盗みを知らないこと。基本的な信仰は矢(ボウ)だと」。(同著 183p)
モヨロ貝塚のある網走地方には、淡水と塩水が交じり合う湖(サロマ湖や能取湖)があって魚介類豊かで食べるものに事欠かない。世界で一番食料が豊かな地域かもしれないとまで言われる。網走川の河口で大量の貝塚を町の床屋さんだった21歳の米村喜男衛(きおえ)さんが発見した。大正2年(1912年)のことだ。常呂(ところ)では十数年後、港湾工事をしていた大西信武さんが河岸段丘で、住居跡はじめ貝塚を発見「常呂貝塚」と命名された。古代の大集落跡地だ。林間に数百の竪穴式住居もあった。以降、東大の考古学部による常呂遺跡の発掘と研究・分析が現在まで続いている。
ところで、先週のブログで世界中の文化人類学者が世界各地の狩猟採集民族、それも小さなファミリー集団が、農業が始まる前の私たちの祖先が「孤独でも、貧しくもなく、悲惨でもなく、残酷でもなかった」、そういう時代が約9万年続いていたことを書いた。ウィルタイの民族としての考え方は、世界中の狩猟採集民(ウィルタイはこれに漁労が入る)と同じ。争いもしない、ということは殺しあいもしないと言える。
そこで思うのは、人間の本性という考え方だ。本性というからには、人間が生まれてこのかた、遺伝子に組み込まれて、どうしようもない性質とでも訳せばよいのだろうけれど、「戦いや勝利や残酷さや殺人や戦争や復讐は幼いときからの学習で洗脳されたことではないのか」ということだ。私たちは生まれてこのかた、「競争に煽られてきて、そうではない社会を知らずにきたが、果たしてこの道が人間の幸せ街道へつながっているのかどうか疑問だ」。幸せ街道なんて要らない、金満街道やゲーム勝利街道で十分だよいうなら何をかいわんやである。人間は利己的遺伝子の乗り物(ビーグル)であるとDNA優先の思考がある。農業が始まってたかだか1万年、それまでの8万年は実は平等な、上下なく、すべて共有の社会が実現していたと思うと、いま流行りのコモンの思想や利他の思想の源流はとっくに実現していて、未来はそこに回帰する動きに見える。
坊主の孫。
一部を除いて多くの人たちは昔に回帰したがっているのではないでしょうか。昔は良かった、今ほど便利すぎはしなかったけれど暮らしやすかったと。コンビニも無いし、スーパーも無し。その代わり小さな店が数軒と対面販売の市場があるだけで、そこでは商圏争いも無く、お互いにモラルがある商いもしていたし、さほどの不便さも感じなかったと。数万年前の平和な時代には戻れなくても、せめて大正、昭和初期の時代にタイムスリップしたとしたら?時間の動きも感覚もゆったりと感じられるでしょうね。今、若者の間でさえ、昭和を懐かしむ風潮が見られるようですね。しかし果たして便利すぎる時代に慣らされていまった我々は古い時代に戻れるかは疑問ですね。
seto
外の世界の進展にアップアップしてついて行ってると思います。それが終われば、やれやれとため息をついて自分の部屋に戻る。その繰り返しに見えますね。ストレスを低く抑えるには副交感神経が活性化すればいいわけで、音楽や自然との交わり、ペットと遊ぶ、庭いじりをする、空を眺める、海や川の音を聞く。全部、自分の五感を自然にさらせばいいのです。大脳を休ませる(都会やパソコンを離れる、スマホを見ない)ことが必要だと思います。昨日、「沈黙の春」を書いたレイチェルカーソンさんの遺作「センス・オブ・ワンダー」を読んでいると海辺の別荘から海を眺め、裏手の森を孫と散歩する、鳥の声を聴いて、五感を動かす重要性について書いてました。それは知識ではなく感性の世界です。大脳をフル活用せず、心臓をバクバクさせない静かな世界を取り戻すことです。
昔の少年。
早朝のBS番組で自然の中でのヨガをやって居ました。一人で黙々としなやかに体を動かして自然の力を身体の中に取り込んでいるようでした。波打ち際の砂浜だったり、マングローブの林だったり、ゆっくり、ゆったり、静かに全身を使って自然と対峙していました。或る知人が、久しぶりに電話で、早期退職して毎朝、気功を日課にして居ると言って居ました。中国由来の気功もゆったりとした動きですね。本格的に春めいて来ましたから自然の中に身を置いてみましょうか。
seto
気功も太極拳もヨガも基本はおっしゃるとおり、ゆったりゆっくりですね。庭のペンキを塗っていました。郵便ポストと鉄柱ですね。水性ペンキは1年たつと使えなくなり。ダイソーへ行き買ってきました。庭を囲う板へも明日から全部白いペンキを塗る予定ですが、ハケが小さくて買いなおさないといけません。小さな日常が誰からも邪魔されることなくできるありがたさをかみしめています。指がペンキだらけです。何かすることを見つけて日常にできる人は、定年後の財産ですね。