リサイクルBOXに廃棄されていた。非売品で展示会用に作成された180p。 拾って紹介できて嬉しい。2002年4月26日発行。解説は英文併記されている。

1863年にスコットランド生まれのニール ゴードン・マンロー。1888年エジンバラ大学医学部の外科を出てインド航路の船医になるが、体調を崩して1890年横浜でリハビリ。若いころから化石や考古学・人類学に強い関心もあって1898年初の北海道旅行。1905年横浜市三ツ沢貝塚発掘。軽井沢でも茂沢遺跡発掘。1907年北海道平取村を訪問、収集したアイヌ資料を王立スコットランド博物館に送る。この年にマンローは日本に帰化している。日本人の起源についても強い関心もあり、1908年「先史時代の日本」を自費出版。1916年北海道白老町で無料診療とアイヌの研究に入る。1923年横浜の自宅が関東大震災で燃えて資料焼失。1929年ロンドン大学のセリグマン教授からアイヌ研究を要請され、翌年二風谷でクマ送りの儀礼を映画撮影する。1933年に二風谷にマンロー邸洋館完成して定住を始め、モンローコレクション収集を開始する。これは後に北海道開拓記念館に所蔵される。1937年にはマンロー診療所を開設した。国内が軍国主義に傾く中。1939年北大北方文化研究施設で「アイヌの宗教と祈祷悪霊払いの儀式」を講演及び上映会をする。1942年二風谷で永眠。遺言は「私が亡くなったらコタンの皆と同じように葬ってほしい」。郷里スコットランドの風景に似た二風谷、アイヌの古い習慣を知る人が多い二風谷。日本人のチヨ夫人とともに暮らし、アイヌ研究をした。スコッランド国立博物館には約200点のアイヌ工芸品が所蔵されている。

マンローの出たエジンバラ大学、医学部時代、4つ年上にシャーロックホームズを書いたたコナンドイルがいる。交友関係は定かではない。

明治23年(1890年)に横浜に来てから昭和17年(1942年)79歳で二風谷で亡くなるまで52年間、日本に滞在し、後に帰化して激動の明治、大正、昭和にわたって日本に在住。日清戦争では従軍医師として志願したが、外国人として断られた。1939年にはマンローはスパイであるデマも流れた。1937年には札幌でヘレンケラーに会っている。アメリカとの戦争前にヘレンケラーが来日していた事実を見つけた。奥様のチヨさんは1974年軽井沢で亡くなっている。マンロー本人の遺言が愛してやまないアイヌの人と同様の葬儀をしてほしいということであった。NHK北海道で1本番組をつくれる主題である。

イングランド島はもともとケルト人が住んでいた。彼らの服装や様々な意匠にケルト模様がある。下の木綿衣のデザインに似ている。マンローやエジンンバラ大学はこれに気付いていたのではないかと想像する。

スコットランド博物館所蔵 木綿衣

  1. 医学、考古学、民俗学、と幅広く活躍された方なんですね。それも日本に帰化してまで横浜や軽井沢など日本を、そして北海道はアイヌ民族との交流など素晴らしい活動ですね。日本自身よりも日本を、愛した方のようですね。戦前はもちろん、つい最近まで虐げられていたアイヌ民族を理解し研究し続けた功績には偉大さを感じますね。私達が生まれる以前にも、こんなに素晴らしい外国人が存在していたとは驚きです。

    • スコットランドはニッカの創業者竹鶴さんも感じた気候や土壌が似ています。北海道に来るとまんろーさんも風光も含めて故郷スコットランドに帰ってきた感覚があったみたいです。どこから日本人はやってきたのかという疑問もありました。余市の忍路のストーンも見に行ってます。スコットランドはいつもイングランドから虐められていましたし、もともとあの島にはケルト民族が暮していて、北からノルマン人がやってきて占領された土地ですからね。ケルト模様とアイヌ模様が実はそっくりなんです。ここにきづいてもいたと思いますね。実は石炭についての相談もモンローはアイヌから受けていましたが即答できませんでした。それはアメリカからのお雇い外国人の仕事と明治政府の仕事になりました。

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