「こんなメールは嫌だ」(NO1)
たくさんメールのやり取りをする中で、不愉快に思うことが多々あると思う。お客さんとのやり取りもあれば友人とのやり取りもあるが、これはいただけないと筆者が思う例を幾つか紹介したい。
まず一人目はパソコンはしないと言っていたので、私のブログは読んでいないという前提で書く。読んでいたらごめんなさいである。まずは中学のクラス会幹事を一緒にしている人からのメール。担任との連絡で開催日時決め、次に場所決め、案内状の作成・送付。参加の可否の確認して彼に結果報告。2年前と参加者変更、それは誰と誰と伝えたが、その後、携帯へ約20行のメールで前回出席者の氏名が書かれて、その中で誰が欠席で誰が新メンバーになったかリピート頼むとのメール。「了解です、18人ですね。」でいいのに突っ込んでくる。電話で、すでに誰々参加・不参加の話をしてあるのに、後は当日を待てばいいだけなのに。ここまで来るのに使った私のエネルギーに何の感謝も敬意もない。まずこんなメールは嫌だの第一は「くどさ」である。
第二は「添削してくるメール」である。私からのメールに必ず1行を空けて、その下に返事と意見を書いてくる人だ。なんだか先生と生徒の関係のようで不愉快である。相手のメールを読んでから、自分の言葉で返事を書けばいいだけなのに「添削されてしまう」。添削好き、俺が物や事をあなたより知っている表明である。部下からの報告や文章を「そうではなく、ここはこう書きなさい」という習慣がついてしまい、退職後も他人へのメールにおいても発揮される型である。仕事をすでに終わって現役を引いているのに可愛そうに癖が取れない。ちなみに第一と第二の主人公は公務員である。
第三は、一方的な見解表明のメールである。あんまりたくさんの人と接触していない人に概して多い、思い込みから発生する一言居士からのメール。映画評論を書いてくるが、「うーん、あんまり話題になっていないだろうけど、感動的ないい映画なんだろうね」とは思うものの、文章に間(ま)がなくて、ひと息つけない。これも疲れてしまう。余裕がない文書やメールをもらうと相手を疲れさせる。ここは役所ではないので曖昧さを大切にしたい。第三も実は元公務員だ。
第四は、ハワイの夕日の風景を送ってくるお金持ちのメール。偶然、東日本大震災のときにハワイに滞在していて、「こちらハワイの津波は10センチ程度」とメールしてきた想像力欠如男からのメール。毎月、ハワイはじめ海外旅行をしないとお金を費消できない可愛そうな人である。もっと別な使い方があるだろうに。知性を感じないお金持ちからのメールも好きではない。貧乏人の僻みもあるが、年齢とともに欲しいものはどんどん減ってくる。それにしたがって世の中が見えてくる。
アドマン。
どんなに親しくても、そうでなくてもEメールは昔の手紙に代わるものですから、それなりの書式でそれなりの敬語も当然ですね。むしろ電話での通話の場合に話し言葉ですし、相手が見えなくても会話同然ですから、相手次第ではありますが、ふざけてみたりも良いのでしょうね。しかし正確に伝えるには、やはりEメ―ルか、手紙になりますね。いや、古いと言われそうですが、むしろ手紙の方が確実かも知れませんよ。と言うのも手紙を書くときは一字一句慎重ですが、Eメ―ルとなると、つい手軽さもあって気づかない内に自動変換でありがちな誤字も有ったりしますからね。現代ではEメールは半ば常識ですから多用しますし、郵送料も掛かりませんし、一度に多くの人に一瞬にして送る事もできますからとても便利ですね。そこでEメールの場合でも、できれば慎重に、読み返して,ところどころ手直しなどしてから送信したいものですね。『覆水盆に返らず』で、手紙もEメールも相手の手元に残りますからね。
seto
アドマンさんに同意しますね。丁寧なメールをもらうとこちらも丁寧な言葉遣いで返信します。礼儀です。恩師がガンの末期で自宅療養していると聞いてお菓子と果物を届けました。会えなかったですが、すぐに1枚のハガキが届き、礼状でした。私の大学中退まで見守ってくれた教授でした。おでん屋さんに連れていってもらったりしました。丁寧な付き合いをしました。朝日カルチャーセンターの講師も頼みまして、定年後の楽しみが増えたみたいで何より。携帯なんか持たず,自宅へ電話。奥様も自分の名前を憶えてくれました。電話は1対一のようで実は家族にも、自分の存在が知れるツールですから丁寧な言葉遣いが必要とされます。第三者がいるわけですから。
昔の少年。
どんなに親しくても、相手がどんなに年下でも、どんなに立場が違っても、自ら一歩下がって物を言う事の方がお互いの精神上も好ましいですね。ましてや、元同級生なら、卒業後どんな社会経験の違いがあろうとも、上から物申すなどとんでもないですね。同窓会ならその当時を懐かしむのが目的ですから、現在の自分をひけらかす場ではなく、当時の自分に戻ってこそが本来の姿では無いでしょうか。そういう私自身は同窓会には一度出た記憶は有りますが、その後は全て欠席して居ます。遠隔地と言う事と、年々派手になって、高級温泉ホテルなど高価な会費もその理由ですね。そんな訳で、同窓会も恵まれた者たちだけの集まりになると、本来の?目的とは離れてしまいますから、二の足どころか、絶対に参加しないとなって、一部の人達だけの私物化にも成り下がります。ご本人たちは仲良しクラブ的な、そんな同窓会が夢なのでしょうね。私の希望は、同窓会なら地元でやって欲しいですね。地元の者たちには退屈なのかも知りませんが、社会人になって全国に散っている仲間たちも故郷になら無理してでも一度は帰りたいと思うでしょうから。同窓会=同郷会ですからね。
seto
同同会は私物化されているのは本当です。核になる数人がいてそこに男女の数が増えていく構造です。もともとあるグループ(体育をよくするなど)があって始まるケース多いです。無心や無欲でする人少ないです。私は20年以上、クラス会幹事をしていましたが、連絡を取れる人に丁寧にあいさつ、出席の可否を聞きました。中学を出て働いて売人も多く、大学を出てる人もいて公平に接したつもりです。担任はやっぱり威張り癖が取れませんでしたね。この人にスマホ持たせたら終わらない文面のスマホになりそうです。どこまでも子供へ説教。
坊主の孫。
メ―ルは便利なツールですね。また郵便料金も値上げするようですから、それに比べてインターネットは今やだれでも使えて、料金も殆ど掛かりませんからね。またパソコンが無くても携帯電話でも送受信可能ですし、ダイレクトに素早く届きますから、反応も早いですね。それだけ手軽なメールですが、あくまで文字のやり取りですので、誤解もされやすいところもありますね。最初から悪意のあるものは別にしても、文章の言い回し一つでも受け手によっては解釈が大きく異なる場合も有りますからね。常に受け手の事も十分に考えて、簡潔明瞭に分かりやすい文章が理想でしょうね。相手の感情を害するなんて事にならない様に十分気をつけたいものですね。
seto
簡潔名量が一番、そして相手の気分を害さない品のいいメールですね。これ一番です。
メ―ル・カウンセラー。
第一は『くどいメ―ル』ですね。必要以上にくど過ぎる返信は迷惑で、何度も同じ事を繰り返さなければ理解すらできない脳に成ってしまった悲しい病です。お気の毒に、何か?の職業病の一種ですね。第二の『添削メ―ル』は上から目線で嫌な感じですが、きっと、どこかで自分自身が嫌な目に遭っているのでしょうね。その反動を無関係な所でストレス解消とは、勘違い病?場違い病もいいところですね。第三の『個人見解の押し付けメ―ル』は、他人にして見れば興味も無い事を、しかも長々と自分の意見だけを押し付けて来るのは迷惑ですね。思考回路が偏り過ぎてしまった人ですか、それにしても視野が狭くなってしまった狭角病ですね。第四の『無神経メ―ル』ですが、贅沢なバカンスの満喫度を他人に自慢しているだけで、自国の大災害の事など他人事以下のようで、配慮のかけらも感じられない無神経で頭も相当おかしい、これは既に精神をやられてしまっていますね。ですから救いようがありません。
seto
メールカウンセラーという仕事があってもいいですね。月々100円払って、不定期に自分のメールをロボットに点検させて、まずいところを手直ししてくれる添削ロボット制度です。化けるかもしれません。学校なら全員生徒に学校の費用で加入して添削させる、しかし、その管理はしない。生徒自身が自分で考えろという突き放し方をします。自分の無神経さを客観化できるチャンスです。感情を抑える機会になります。