黒澤明さんが42歳のとき(1952年10月)に書いた文章を見つけた。

タイトルは『しみじみと感情をたたえて』 全集黒澤明 第三巻 290p

いまの私もそうだが、いったい自分はこれまで何をしてきたのだろうと問い返すが日々が多い。

『僕は時々、ふっと自分が死ぬ場合の事を考える。するとこれではとても死にきれないと思って,居てもたっても居られなくなる。もっと生きているうちにしなければならないことが沢山ある。僕はまだ少ししか生きて居ない。そんな気持ちがして胸が痛くなる。(生きる)という作品は、そういう僕の実感が土台になっている。この映画の主人公は、死に直面して、はじめて過去の自分の無意味な生き方に気が付く、いや、これまでの自分がまるで生きて居なかったことに気が付く』(同290p)

人生は十分に長いと言ったローマの哲人もいたが、それこそ例外的な人だけで、普通は『あっという間の時間経過」でしかない。結婚しようがしまいが、子供の有無にも関係なく、毎年、白髪が増えて、歯も抜けて、立ち上がるときに『よいしょ」と言ったり、やれやれという発言も多くなり、何をしても疲れやすくなる。無我夢中で仕事をしてきた33歳から45歳くらいまでが自分の頂点かもしれない。娘婿がダイハツに勤めているが、あるとき『お父さん、自分が一番仕事に燃えたのが、マレーシアで国産自動車のラインをつくるために技術指導で派遣された1年半でした。1号車が製造ラインから出てきたと大感激しまた。仕事に全精力を注いできました。」そのとき当時のダイハツの社長からハグされた写真がダイハツで出回り、有名になった。『いまは社内出世を諦めました」と私に報告。『いいんでないの。充実した仕事時間を持っていただけ幸せだよ」

そういう人もいれば、肩書と出世で生きている人も多い。しかし、黒沢明の『生きる」は、市役所市民課で志村喬演じる単調な仕事をしてきた中年の物語。過去の自分の無意味な人生を反省して、市民の喜ぶブランコのある公園をつくる話だ、市役所の中で新しいことをすることは、ファーストペンギンになる覚悟と変わり者の異名をもらうことを覚悟したい。が、世の中を動かす。

 

豊後高田にある 昭和の町 ダイハツミゼット

 

 

  1. 黒澤明とは次元が違いすぎますが、自分の今日までを振り返れば断片的では有るものの、よくもこれまで何とか無事に生きて来れたものだと思います。これからも何が起きるかは分かりませんが、これまでの経験からか?あまり心配もしていない自分が居る事に気づきます。これが経験値とでも言うのでしょうね。危ない橋も渡ったり、苦手な事も何とかやったり、好きな事を思い切り勝手にやったりと、他人事のように思い起こせば結構面白い生き方のようにも思いますね。気づけば自分と言う一人の中にも数人の性格が混在している事に気づきます。言い換えれば多重人格とも言えますが、人は皆、多かれ少なかれ多重人格ではないでしょうか。清廉潔癖で裏表のない真っすぐな人間など理想かも知れませんが、どれ程いるのでしょうね。長く生きて居れば浮き沈みも当然あるでしょうから、その時々に対応力さえあれば悲観ばかりする事も無くなりますね。これからも、そこそこ年代に合った無茶をしたい気分ですが、どこまで続くかですね。

    • 18日からの入院終わる。心臓検診でした。昔の少年さん、おっしやるように、ヒヤヒヤの人生でした、そしてこれからも。一寸先とはよく言ったもので、トランプの奇跡的な右耳の傷で済んだのにもびっくりでしたが、別にそれは神とかではなくて、普通の人にも襲うことですね。それは世界じゅうの民が持っていることです。有名と無名問わず。人間の性格もおっしゃるように、立場変われば(権力や地位や名誉や金持ちで)性格ががらっと変わります。そうなるんだということを知りながら生きることと、権力と地位に流されるまま生きることでは雲泥の差が出てきます。昔からほどほどの生き方、中庸の生き方が説かれてきたのは、古代からの著名人が言ったことでもあるし、黒沢明が娘に『普通に生きることのむつかしさ」を言ったのも、簡単に人間が立場変われば人が変わってしまい、天使が豚になったりするから、それを伝えたんです。いまでも自分がこの年齢までろくな仕事をしていないと思います。なんとか後半で世の中のためになるような生き方ができれば、棺桶に向かって歩けるかもと思うこの頃です。

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です