老いるのはむつかしい
誰にでも老いは来るが、最近、佐藤愛子「90歳、何がめでたい」 や曽野綾子「老いの才覚」などの本が良く売れている。老いてもますます迫力感を増した画家の故片岡球子さんや100歳を超えてなお書道に打ち込み篠田桃子さん、長生きと健康志向の強い人は聖路加病院の日野原重明さんの本を読んでいる。100歳を超えても病院内では人事にも口を出すので老害とまで言われてるから、晩節を汚しているように筆者にはみえる。
現役で仕事をしていると、年齢を忘れて夢中になる瞬間が続く。夢中が8時間続いて、次の日も、そして1週間続けば引き際がわからなくなる。しかし、問題は「何に夢中になっているか」である。身近に、老いる、老年のお手本はいないものである。潔い人生を送っている人はいないので、自分の父親のことを考えることが多い。
DNAの半分(母親の遺伝子のほうが多いかもしれない)は父親からきた遺伝子であるから、似た形質があるわけで、あれこれの人生の岐路で判断した自分の価値観に父親の影響の痕跡をみつかるのは、嬉しいような悔しいようなほっとするような複雑な気持ちになるものである。老いはだから、父親のコピーを、父親の人生の後ろを歩いている気にもなる年齢だ。
現役時代は、「いま、そこにある仕事を片付ける。せいぜいが数ヶ月先の予定を片付けること」がメーンであった。老いについて、昔、読んだ古代ローマの政治家・哲学者キケロー(紀元前106年~同43年)「老年について」(岩波文庫)を書棚から出して拾い読みをしてみた。若者ふたりを前に老いと晩年の心境を文人カトーを登場させて語る対話本である。
富や財産があるから、さらに声望がカトーにあるから、あなたにとって老年がたやすく生きられるのでは?という若者の質問に答えて・・16p
カトー:(中略)極度の欠乏の中では賢者でさえ老年は軽くはありえぬが、愚者にとっては、山ほどの財産があっても、老年は重いのだ。〈中略〉老年を守るに最もふさわしい武器は、諸々の徳を身につけ実践することだ。生涯にわたって徳が涵養されたなら、長く深く生きた暁に、驚くべき果実をもたらしてくれる。徳は、その人の末期においてさえ、その人を捨て去ることはないばかりか、人生を善く生きたという意識と、多くのことを徳をもって行ったという思い出ほど喜ばしいことはないのだから。
ここで言う〈諸々の徳〉とはいったいどういう内容なのか。具体的な人物像が、現代において家庭や学校や企業で見つからない。しかし、きっとどこかで老年ながら隠れて生きていると徳を持った人がいると思いたい。
余計なことながら私と同じ年齢の某企業の社長に「もうそろそろ、社長を辞めて若い世代にバトンを渡したら」とアドバイスしたことがある。返って来た言葉は「辞めて何をするんだ?」だった。無我夢中でいるときは年齢を感じない(考えないようにしている)ものだ。こういうトップのいる企業では次の経営者を育てていないケースが多い。
老いるのはむつかしい。自身の頑固はしかし治していきたい。死後硬直の体を何度も触っているから、硬さは死への序章かもしれない。
坊主の孫。
早くして、と、言っても昔なら年老いた年齢層に類するのでしょうが、医学の進歩か?それとも食糧事情の西欧化か?何故か長生きが当たり前の現代にさえ、短命でお亡くなりになる方々も多いですね。しかも中には有名人の方々も沢山居ます。勿論それが有名人ばかりか、一般の方々も全く同じですが。例えば、ジャンルを問いませんが、有名な歌手や俳優の方々や作家にも未だ若くして亡くなられた方々を振り返ると、どこかで共通点のようなものも見えてきます。彼ら彼女らは既に自らは命の短さを理解していたかのようにも思えるのです。それは一般的には短い命の最期で輝いて惜しまれながら旅立つているのです。しかも最後の姿やその作風や作品には必ず人生がテーマに成っています。人生を語り、人生を歌い、創作して、遺作として残しています。ですから、一般的には短命と思っても、ご当人にとっては、普通の人の2倍速、3倍速、で生きたのではないでしょうか。人生を語り、人生を歌い、人生を表現した作品を遺し、魂を込めた遺作が、私達への彼ら彼女らのメッセージですね。
seto
短命ではあっても、彼・彼女たちの残した作品に密度の濃い人生ソング・創作がありますね。尾崎豊の『ダンスホール』は何度聞いても感動します・-。それは世代を超えているわけですね。無理してダンスホールに来た小女を謳った尾崎の視線や想像力が凄いです。長生きだけ賛美されてるように見えて、どう生きているか、どうやって生きているかが見えにくいかもしれません。きょうを真剣に生きるしかないですね。
昔の少年。
『君は長生きするは!』と冗談で言われれば、さほど悪い気はしませんが、裏を返せば『まだまだ苦労が足りないね!』とも取れますね。長生きする人は苦労せず安穏と暮らしている人ばかりかと言えば、これも全てに当てはまりませんね。例えば自分の身近のお手本に父母や祖父母がいた訳ですが、皆んな共通点は苦労して居ましたね。原因の一つは私自身でもあったのでしょうが、父母の口からは、そのような愚痴など聞いた事はありませんでしたね。自分自身が父母の年齢に近づいて初めて知る事ばかりです。長生きは家系なのか?それとも摂生なのか?。さほど運動も、勉強もせず、仕事ばかりに熱中した時間の方が長い訳ですが、最低限でも父母の年齢以上はクリアしたいものですね。ゴールなど決めずに好きな事も続けて行きたいものですね。
seto
自分の年齢を父親が生きた年齢と比べることが多くなりました。それとともに父親が考えてきたことがわかるようにもなりました。なぜもっと若いときに父親や母親の考えに思いを寄せられなかったか後悔ばかりします。父母の写真を部屋に置いて毎日見るようにしていますが、いずれ自分写真の中に納まるわけですから、人生準繰り。人間、誰しも死に向かって歩いているわけで、それを学ぶことが哲学だと言ってます。それにしても生き続けることはお互い大変ですね。
アドマン。
90~100歳代でも活躍している方々の特徴は、自分の引いた道を邁進していますね。それが農業であったり、芸術分野であったりそれぞれの道は違っても、長く続ける事を楽しんでおられる方たちばかりですね。楽しく生きられれば、誰もが長く生きたいと思うでしょうね。苦しんで精いっぱい頑張って居る人たちと、何も考えずに成り行き任せの方々も多いと思いますが、主義はそれぞれ違うでしょうが、どうせ生きるなら少しでも楽しく、長く過ごせたら幸せでしょうね。
seto
楽しく毎日、ことをなしている人はいい顔、生き方ができて羨ましいです。自分にはたいした趣味もなくボンヤリ生きてるだけだと思います。お尻の肉が減って、歩きも遅く、近所の旦那さんときょうも尻の肉をつけるには1時間は歩かないといけないなどと会話したばかりです。車に乗る時間を減らさないとね・・とも。健康に留意してきた知人が若くしてたくさん亡くなりました。彼らの事を思うと、彼らの葬式に出て、家族の悲しみ・子供たちの涙を見て少しでも親なら長生きしないとなと思います。特に経済的な負担をさせないでどうやって死んでいったらいいか毎日考えています。