平凡に暮らすのは至難!?
73年を生きてきて、同世代の近所の旦那さん方が49歳、53歳、55歳、52歳、60歳で病気や事故で亡くなると、『平凡で普通に暮らす。静かに暮らす』ことは奇跡ではないかという思いが日々強くなる。同世代以上の長生きがいたとしても、早くに亡くなった人をやはり思う。黒澤明の《「生きる」言葉》の中に『普通に生きることが一番むつかしい』がよみがえる。普通って何?と聞かれても、基準があるようで実はない。人生に平均はない。昨日のような今日があって明日もきっと太陽が昇って沈んでいく・・・という何の変哲もない日常、普通の暮らしが実は一番いい。
それが突然のミサイル落下、配偶者の病気、子供の事故、貸し倒れや自己破産、交通事故、突然のリストラ、大地震で自宅消失、原発事故での居住変更と移住、白血病発症の不安増加、見知らぬ通り魔に襲われるなど不幸な種は数え上げればキリがない。芸能人や政治家にだけ事件やスキャンダルが襲うわけではない。公平に男女・性別・年齢・富貴に関係なく誰にも襲ってくる。平凡さに飽きて、「何かおもしろいことはないか」「どこかに美味しい店はないか」「イベントをやってないか」「いまの流行は何だ」など変化を絶えず探し求めて刺激を求める現代だ。電波からチラシからポスターから「イベントだらけ」「イベント漬け」に市民を洗脳してしまっている。
そういう社会の中で、平凡に普通に暮らすのは至難の業である。私も正直この平凡さや普通って具体的にわかるようでわからない。しかし、私自身が救急車で運ばれたり、子供がケガをした、具合悪そうで迎えにきてくれと学校から知らせがあったり、母から「お父さんがトイレで動かなくなった」と電話があって、葬式の準備を考えながらアイスバーンの冬道を走った2月4日の真夜中を思い出すと、「何もないことがありがたい」という意味がわかる。
反対に「無事に生き返って退院できた」「無事に希望の大学に合格した」「無事に孫を出産した」「無事に事故もなく帰郷した」「無事に通夜と葬儀を終えた」。共通は「無事に」という副詞である。無事に案件は終わり、普通の日常に戻るということだ。空から危険なものが降らず、私の立つ座る大地が揺れず、突然、刃物を持った人が玄関口に立つこともなく、たんたんと日々が過ぎてゆく。ある日、突然の人生の中断(急性心筋梗塞)があっても、ここまで生きてきたのだからその日まで生きたいと思う。
反省だけなら猿でもできる。
日々、平々凡々が一番幸せなのかも知れませんね。しかし我々は何かしら要らない事ばかり考えだして、ややこしい生き方をしてしまうものですよね。余計な事をせずに只ジッとして居れば良いものを、我慢できずにやらかしますね。それも人それぞれで、暮らしを少しでも楽にしたいからとか?理由付けして働き過ぎたり、人生を楽しみたいからと無駄な遊びやギャンブルに走ったりと、それぞれが言い訳を作って正当化して動き回った挙句に気づけば無駄な事ばかりの過去いや?現在ですね。後悔は先に立ちませんから、終わりに近づかなければ、なかなか気づかないものですね。そこで初めて後悔する訳です。防衛策としては、遅かれ早かれ気づいた時点で即、自分に厳しく軌道修正もしくは方向転換すべきでしょうが、それが出来るか出来ないかも自分次第ですよね。しかし、反省どころか?むしろ無駄も人生の糧とか都合よく理由付けしたくなる自分も居ますからね。反省!
seto
最近、多いアルコール摂取での運転での死亡事故も、行かなければ、家にじっとしていれば何ごともなく終わった案件。交通事故は仕事ならいざ知らず、走る必要がないところへ飛んで行き出くわす衝突も多いです。人生は初めから「退屈」が本質(パスカル)なので、それをいかに破るかでスポーツやゲームを考案した李、軍隊や議会をつくったり、クラブをつくったり、ビアガーデンをつくったり、わいわい騒ぐ集団をつくってしまったんです。戦争も退屈から起きた・起こしたというひとさえいます。男の退屈はたちが悪く、人類に他人に被害を及ぼす場合も多いので要注意です。
アドマン。
気付けば、自分も、今では生前の親の年齢に近づきつつありますが、振り返ってみれば、これまで平凡な暮らしなどあっただろうか?と。のんびり出来たのも束の間で、ほとんどアクセク動き回った事ばかりが蘇ります。かと言って何か一つにジックリ取り組んだと言う記憶もありません。一つの事に没頭して時間を味わうどころか、時間に、小刻みに振り回されっ放しだったようにも思えます。世の中には『余生を楽しむ・・・』なんて言葉もありますが、その余生とやらも有るのか?無いのか?それすらも不明ですが、もし僅かでもあるとすれば、さて?どうしましょうか?やりたい事は沢山有った筈なのに。そして、時間も沢山有った筈なのに?咄嗟に浮かびませんが、とり合えず好きだった?はずの絵でも描きだしますか。とは言っても果たして?
seto
とにかく「何かのために」「誰かのために」がないと生きられないのが現実ですね。歯を直すのだって「自分のために」ですから、平凡に暮らすと言っても小さな目的や生きがいはあるわけで、普通はこれで十分なのに、選挙で公認されないと党からの資金が出ず、ぽすたーも作れないとかぶーたれてる怠け者政治集団がいます。非正規労働の体験者になればいいものを、まだ国税で食おうと、生活しようとしています。お天道様が見ていたら「カツ!」です。政治の世界は非日常生活なので、大脳もそのように働きますから、よく喋ります。自分に都合のいいように。それにしても元道知事高橋はるみさん、健康を害しているんだろうか?心配です。イラクでつかまったボランティア4人を帰国したとき、東京にある道事務所を開放して彼らをかくまった英断はたいしたものでした。自己責任論が日本中を覆っていたときでした。