囚人道路やフロンティア開発。(北海道刑罰史・・西村秀雄、みやま書房)
全国各地に、囚人に苦役を課して、普通の工夫を雇うより安い費用で道路作りをしていた都道府県がたくさんあるかもしれない。江戸時代に幕府が罪人に島流しをしていた。八丈島が有名である。明治以降、その島は北海道になった。明治14年9月に石狩国樺戸郡に樺戸集治監が作られた。作られたと言っても作ったのは囚人たちである。初代典獄(官長)には福岡出身で薩摩軍を撃退するのに功績があった月形潔が35歳で赴任。
食事は2割の白米と麦が8割、味噌汁1杯で朝の5時から夜の9時まで道路作り、道路脇の水路づくり、自分たちの入る監獄つくりをしていた。囚人には自由民権運動で逮捕された秩父事件で無期懲役刑を受けた柿崎義勝、小林酉蔵、大野長四郎もいたが全員死亡。栄養失調と過酷な労働が原因と思われ、いまも共同墓地に眠る。もちろん凶悪犯も同じ囚人として15時間に及ぶ肉体労働を強いられた。
当時の北海道は開拓するためにはまず道を作らないといけなかった。深い熊笹と大木に覆われ、泥炭のじめじめした土地を歩かないと奥地にいけない。過酷な労働から逃亡者は頻繁に出た。北海道には大きな集治監が、三笠の空知集治監、そして網走集治監がある。加えて、幌内(三笠)に石炭も発見されて、石炭を掘り出す仕事も追加された。明治16年から250名の囚人で採掘を始めた記録がある。明治22年渋沢栄一など財界首脳が発起人で作られたのが北海道炭鉱鉄道会社(北炭)そして38万円で払い下げ、民営化にしたのである。労働する囚人も空知集治監へ1000名の借用願いも出された。構内での爆発事故も多く、1000名を超える囚人が犠牲になっている。
道路といい、炭鉱といい、一番キツイ業務は、まずは囚人たちが開拓・開いてきたのかもしれない。自分たちのルーツである屯田兵もきつい仕事ではあっただろうけれど、アイヌの土地に北海道を囚人と屯田兵、士族、出稼ぎや本州からの流れ者もどっとやってきた。道庁の役人も増えてきた。彼らの慰めにできたのがススキノの色町である。明治政府に反抗する政治犯(自由民権運動家)も網走に多く収監された。彼らはたとえ死んでも使える間は貴重な労働力として使い捨てられた。シベリヤ開発もラーゲリに収監した日本人、ドイツ人、イタリア人、ユダヤ人、ウクライナ人、国内の政治犯をシベリア送り、シベリアの森の伐採作業を中心に、それをシベリア鉄道の枕木や火力発電所の建設に使ったのである。アメリカのフロンテァイ開拓にもたくさんの犠牲が横たわる。
つぶれかけた、からっぽの小屋は、
彼らがすくなくてもここでは、
敗残の人たちであることを物語っている。
しかし、その敗残のうえに、
わたしたちの成功は築かれている。
都市も、町も、すべて
農場も、蜿蜒(えんえん)とつづく道路もすべて
彼らが敢えて挑み、そして敗れたからこそ、在る。
多くの人たちの敗残で贖(あがな)われずに、
人間が手にしたものなど
いまだかつてありはしない。(アンナ・ルイス・ストロング)西園寺公一訳
しかし、驚くなかれ、現代アメリカでも利益と効率を図る食肉産業で抗生部質と糞尿で衛生的にひどい工場で囚人が使われている。『勤勉で英語堪能。組合もなく福利厚生も要らず、労働条件には一切文句を言わず、最低賃金の十分の一ほどで雇用できる囚人労働者は、今全米の企業からひっぱりだこの人材だ』(株)貧困大国アメリカ 堤未果・・岩波新書45p
昔の少年。
私も本州で余され、流されはしなくとも、流れ者の一人かも知れません。当時は何の仕事も無く、降り立った真冬は、1月31日の札幌駅前。まず驚いたのは、竜宮城かと?。言葉は標準語に近く、しかも街行く女性は皆きれいで、男性はと言えば、厳寒地にも関わらずバーバリコートの薄着で、しかも素手でカバンを持ち、市電停で電車を待って居ました。それに比べ私のファッション?はと言えば、スキーウエアの様な襟は毛皮状のキルティングジャンパーとコーデュィロイのズボンにモコモコのブーツに毛糸の帽子と分厚い手袋ですから、何やら別世界からやってきたみたいで恥ずかしかったです。それでも寒く、即、暖房の効いた駅前のデパートに駆け込んだものです。同じ流された者でも、特に開拓に貢献したでも無く最終的には、せいぜい自分の居住の地と決めたくらいで、最初の頃は何故か?本州ならどこでもいいから、直ぐにも帰りたい衝動にかられたものです。しかし毎年お決まりの極寒の冬は有っても、自然にも恵まれ、人情にも育まれ、今では、大都会などには無い丁度良い環境にすっかり馴染んでしまいました。しかし現在の北海道が有るのも、様々な境遇の先人達の知恵や、犠牲の上に成り立って居るのですね。ローマに限らず一日にして成らずですね。
seto
ローマは1日にしてならずですが、いまを生きていると、そういう先人の苦労は忘れてしまうので、たえず想像力で過去と未来を想起する習慣をつけたいものです。よくぞ北海道に来てもらって、たくさんの人やスポンサーが喜んだと思いますよ。結果オーライとはいえ、道産子の人情に触れると、また美味しい食べ物を口にすると転勤族も帰りがたくなります。本社に帰っても、札幌に遊びに来たくなる人多いです。女性はきれいだそうですがこればっかりはわかりません。全国から来た人たちの混合から生まれたからでしょうね。札幌は見栄っ張り多いですから、おしゃれな人が昔から多い。日本国は大陸(半島から)と北から(樺太から)、弥生と縄文の2種の民族から構成されて、いやもっとたくさんの日本文化があるというのが新しい日本文化論です。東西の日本ではなくて南北で考える日本です。
坊主の孫。
何気にクルマで走ったり歩いたりしている道路の歴史を辿れば、数えきれない人達の犠牲のもとにつくられた事が分かりますが、その人たちの功績は闇から闇へと消されて、指揮した役人たちや看守たちの名前だけが後世に伝えられ残されているのでしょうね。何時の時代も働かない役人が偉くて、実働した庶民や貧民や犯罪者は名前すら消されてしまう世の中ですね。大戦の戦没者はお国の為に命を捧げたと言う事で、形式だけですが慰霊祭なども開催されるのに、同じ国の事業の為の労働力に駆り出され無念にも命を落とした人達は死刑同様の扱いとは腑に落ちませんね。
seto
無名戦士の墓、美味しいところだけを食べる役人や政治家たちの群れです。私なんかお天道様が見ている信仰ですから、気にしません。地域社会で生きてきた人はほとんどそういう人です。工場街で育ったので、食品づくりや機関車を直したり、市場で物を売る人々でした。先日、帯広へ行ったとき「帯広刑務所」もあり、道路と炭鉱で働かせたと記述ありました。さらに悪いことをすると網走に送られたと書いてました。自民党の裏金議員は全員、網走刑務所へ1週間入れたらどうでしょうか?相当にこたえて二度としないと思いますよ。議員立法で法律成立することに皆さん賛成するでしょうかね?