函館の猫

帰途

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

言葉がなければ誤解しなくて済んだのに、なまじ言葉があるおかげで、その使い方が他人に不適切で、気分を害させて、以降、人間関係が切れた経験は誰にでもあるだろうと思う。スマホや短い無料メールのせいで、「メールなんて出さないほうが誤解も無くてスムースな良好な人間関係を保てた」。筆者は時代に逆行するようだけれど、現代は「絆」とか「繋がる」ではなくて「無口」や「一人になりたい」社会ではないだろうかと思うのである。

「孤独死」や「孤立死」をなんとかしなければと報道はニュースにするけれど、「人間はどんな時代や環境でもひとりで死んでいくはずだから」。この法則は変えることはできない。筆者も死に行く母を見守りながら、死んでいく母をどうしようもできない、死に行く母の心の深いところには入れない、何を思っているかはわからない。ただ、私に母は「思うように死ねないものだよ、あっはっは」と言ってくれたことが、せめてもの慰めであった。言葉を山のように積んでも、死はつかまえられない。そう考えて、田村隆一の詩を再度読んでみよう。

 

上の母猫の子供 親から捨てられ、知人が育てている子猫

  1. 近くの高層マンションから中古住宅に引っ越して来た隣人家族も最初は、ガレージで作業していた私に、家族そろってにこやかな笑顔でご挨拶に来てくれました。ところが暫くすると子供たちはもちろん、ご主人も笑顔は見せなくなりました。それどころか除雪などで道路を挟んでお互い直ぐ傍に居ても顔を合わせようともせず、ただ黙々と作業するだけですから、昔の股旅者でも有りませんが、後ろか横向きで「あっしにはかかわりのねえことでござんす!ごめんなすって!」と顔を合わせようともしません。こちらは、いつ振り向いても挨拶できるようにしていても、すぐそばにお互いが居る事が分かっているにも関わらず顔を上げようともせず、言葉も交わさずです?。こんな隣人は初めてです。年のころ50代の生真面目なサラリーマンのようですが、余りにも変わっているので私は早速「三度笠」とニックネームを付けました。しかし不思議なもので、働きに出ている奥様は顔が合えば一声有りますが、旦那は顔を合わせません。ところが我屋の妻は関西風で誰にでも平気で声かけしますから、相手がヤクザだろうが誰だろうが平気で一声かけますから「おはようございます!大雪で大変ですね~」とか言えば、無口?な三度笠も振り返って一言返してくるそうです。そこで感じたのは?実は私自身も、向こうから見れば同じく「三度笠」に見えているのかも?と。男は不器用!女は度胸!ですね。言葉は様々ですが言葉の無い世界が直ぐ傍にもありました。

    • 私も近所に声をかけない夫婦がいます。親しかったのは最初だけ。彼が社保庁の役人であちこちリゾート施設をわたり、最後は厚生年金館長や社保庁病院事務長など、天下りと退職金せしめて、真っ赤なボルボを見せつけて高価なバラでオープンガーデンして、市長がヘイコラ挨拶に来ているのを見て、吐き気がしてきました。国税イタダキ人生ですね。全国の温泉施設で今でも宴会を旧社保庁職員は豪勢にやっているそうです。年金を間違えたりもしていましたが、責任取った職員はゼロでした。民間では考えられません。弁解の言葉だけが虚しく空を舞います。先日、真っ赤なボルボがきれいだったので「洗車したんですね」というと「新車ですよ」。お金の使い道がないんですね。私も意地悪ですね。それにしても高層マンションをなぜ降りてきて地上に住みだしたのか知りたいですね。

  2. 筆の達者な友人に四半世紀も前に短歌や俳句を詠んで書いて貰った事がありました。最近保存してくれていたその書を見せてもらいましたが?『コレ?誰の作品?』と?。実は私の句だったのです。既に自作すら忘れる歳か?と半ば驚きました。私にこんな才能が有ったとは自分でも知りませんでした。自画自賛?いや?自我爺さんですね。流れるような筆文字が愚作うぃも名句に見えるから不思議ですね。言葉は不思議なものです。長々と語るより、最も短い言葉「短歌」や「俳句」のほうが言わずとも語って居ますね。言葉も余計な事を言わなければ角も立ちませんからね。

    • 庭にスズメが毎日やってきます。くず米を与えています。スズメ同士で会話をしているみたいです。「きょうのくず米、前より美味しいな。どこの産地かな?」とか「そろそろ10年以上、くず米やパンの耳をもらってきたから、つづらを持ってこないといけないね。お礼に何をしたら喜ばれるか、帰ったら今月のチュンチュン会議の議題にしよう」と語ってました。そこに羽根を休めるブルーベリーの木が言いました「そんなの要らないよ、ここに住むご夫婦はあなた方が切り株で米を食べる姿を見て、それだけで喜んでいる。幸せを感じているんだから」と。スズメは答えました「私たちの命はせいぜい3年くらい、3世代にわたってくず米をこれたことを次の子供たちに伝えていきますよ」ブルーベリーは言いました「私はこの場所から動けないが、根から水と肥料をもらって2年失敗している、ぶるーべりーの実をたくさんつくってご夫婦を喜ばせたいが、何せ老木だから勢いなく大変です」。チュンチュン。

  3. 今はスマホ時代で文字での会話も増えています。メール言葉も生まれて、子供達や若者たちの間では言葉がすっかり変わっています。文章に句読点を丁寧につけるとダサいとか略語が多く例えばOKは「おけ」とか略語を多用しますから言葉も理解に苦しんだり誤解も招きます。今や全員がスマホ病ですね。我々の青春時代にはラブレターですからね。夜書いて朝読み直して投函を辞めたりもしましたね。全寮制の高校生時代には先輩たちよりも多くラブレターを貰って羨ましさからか、夜中に布団のまんま4人部屋の自室から廊下に運ばれていたのも知らず寝ていた事も有りましたね。その時代にスマホなどあれば、あんな事件?も無かったでしょうね。自分で言葉巧みに書いた手紙も読み直せば赤面ものでしたね。言葉はマジックでもあり、時には凶器にさえも成り兼ねませんから、スマホメールやSNSも「送信」の前にもう一度読み直してからの方が良さそうですね。

    • はじめてガラケイを持った時、はがきに手紙を書くような文章で相手に送った記憶がよみがえってきました。とにかく丁寧な文を心がけました。まして異性ともなるとそうでした。パソコンが入ってからも先方には礼を尽くしたメールがほとんどです。いつから絵文字や乱暴な親しくないのに親し気な文面が入ってきたのか?3つ目の広告代理店で社長の横で新人教育をしていたとき、皆の悩みを聞くためにお昼ご飯を順番に食べさせて会話してました。終わってから携帯に「アザス」とありました。「ありがとうございます」を3文字で送られたのです。急に怒りが湧いてきました。全文書きなさいよ・・と。丁寧にしないと長生きできないよと言いたいです。乱暴は乱暴な死に方しますよ。

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