あらゆる戦争は、起こすのは簡単だが、やめるのは極めてむずかしい(サルスティウス)
ギリシャ・ローマ名言集(岩波文庫)134pに見つけた。ロシアのウクライナ侵攻をしたプーチン、10月7日にイスラエルに死の商人から買ったロケット砲2000発を撃ち込んだガザ地区のハマス。ローマ末期に政務官としてカエサルに仕えたサルスティウス(BC86~BC35)はかく語った。「あらゆる戦争は、起こすのは簡単だが、やめるのは極めてむずかしい、戦争の始めと終わりは、同じ人間の手中にあるわけではない。始めるほうは、どんな臆病者にもできるが、やめる方は、勝利者がやめたいと思う時だけだ」当時、ローマが関わった戦争を記録した「ユグルタ戦記」。
さらにセネカの「狂えるヘラクレス」から。「戦争は限度など守りはせぬ、抜き身の剣の行く手を制し、それをふさぐなど、容易にかなわぬ」。現代は戦争当事者の仲介者(国)があるので、壊滅的なところまで進行することも稀とは思うが、イスラエルのネタニヤフは超危険な人物なので、戦車がガザ地区に侵入する最悪なシナリオにならぬよう祈るばかりだ。
不思議なのは、世界各地で戦争と難民発生、地震被災者が出ても、人類はラグビー大会、バレーボール大会、MLB、ゴルフ大会、アジア大会、ヨーロッパのサッカークラブ選手権に、プロ野球セパ交流戦など戦争をしている同じ時間にTV放映していることだ。ある人が「サッカーはファシズムだ」と書いた。国立競技場の近くのマンションに住んでいる女性で、JAPANのサッカー試合があるときは、耳栓をして仕事をしていると書いていた。ゴールキーパー以外は手を使えないサッカーはより暴力的なスポーツになりやすい。南米では死者も出る。
人間の持つ寛容性の面から、戦前の日本社会の軍部とメディアを苦汁を持って生きた、フランス文学者渡辺一夫さん「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という72年前の論文がある。「我慢にも限界があるぞ」「やられたらやり返すだけ」「眼には目を」の観念で人類はどのくらい殺し合いをしてきたのだろうか?1951年1月に書かれている。私が生まれた年である。少し長い引用になります。
「過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開される現実を眺めても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった実例を見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容に対して不寛容になってよいというはずはない。割り切れない、有限な人間として切羽つまった場合に際し、いかなる寛容人といえども不寛容に対して不寛容にならざるを得ぬようなことがあるであろう。これは認める。しかし、このような場合は、実に情けない悲しい結末であって、これを原則として是認肯定する気持ちは僕にないのである。その上、不寛容に報いるに不寛容をもってした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱して、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深い襞を残して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は、考えまいとしても考えざるを得ない、従って、僕の結論は,極めて簡単である。寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきでない、と。繰り返して言うが、この場合も、先に記した通り、悲しいまた呪わしい人間的事実として、寛容が不寛容に対して不寛容になった例が幾多あることを、また今後もあるであろうことをも覚悟している」
16世紀のヨーロッパ宗教戦争を研究・精査して、同じ「神」をめぐる血を血で洗う大陸であった。それは現代でも全く同じ構造が支配している。