人は誰でも「留守」になる権利がある(中野翠)
1996年のエセイ「無茶な人々」(文春文庫)に、行き交う人たちが携帯で話している風景を見ながら、その姿がかっこ悪い・・と感想を述べて、そんなに電波に追いかけられたら、「留守」になれず人権問題ではないかと言う。
恋人同士、使いあうのは「愛」より「管理」を感じる中野さんである。ただでさえ、世間のしがらみで生きているのに、首を鎖につながれて生きていて、その鎖はできるだけ長く、アソビ(ゆとり)があってほしいと言う。
私のブログを作成してくれた人から、希望者へ自動送信をつけようかと相談があった。そうすると読者数が増えるかもしれないということだった。しかし、読みたければ自分で「お気に入り」に登録すればいいのだし、登録して自動配信する非礼はできないと感じて断った。押しつけがましさが嫌いなのだ。
これまで総務や営業会議のお知らせが口頭や文書で机に置かれていたのが、社内全員にパソコンが置かれて、連絡がメールに変わった時、出す側の生意気さ(慇懃無礼な文章や命令口調な文体を含めて、自分がパニック症状が起きそうな気がした記憶がある)。
「留守」になる権利は実は「間」を尊重すること、誰にも干渉されない、自由な時間や空間の確保を自分が欲しいし、相手を尊重しようと思うから、できるだけ拘束しない気持ちだ。エゴが強いと思う人もいるかもしれないが、今の若い人はエゴが弱過ぎると思う。
デスクトップパソコンへ送ったメールが瞬時にスマホへ転送されてる人は要注意だ。夜に送ると、睡眠時に電源OFFにしていなければ届く危険性がある。安眠妨害だ。夫婦関係をおかしくする危険もある。「いま、誰から?女の人?」と妻から聞かれたり、「いま、誰から男からかよ、どんな関係なんだ?」と不信が芽生える場合も想定される。仕事と私的なことが時間を考慮せず、飛び込んでくる。仕事の電話だと、内心、けっこう必要とされてるんだと意気に感じて元気が出たりする。
仕事という麻薬を打たれたサラリーマンの性(さが)だ。サラリーマン社長であっても創業者ではないわけだけど、院政を引きたい気持ちに勝てず、思い切った世代交代を図る勇気はなかなか出ないものだ。「ただの人になるのが怖いのだ。」。もともとただの人だったんだけどね、それに戻ると考えたい。「人は誰でも留守になる権利がある」という主張は、実は「ひとりでしたいことがたくさんある、友達と夫婦で遊ぶことがたくさんある」それを、もう40代や50代から実践していないと身に着かない。また「何もしない」時間が欲しいということでもある。ぼーとする時間だね。夫婦でも一人の時間を大事にしたいものだ。
私の知り合いで、40代から町内会の世話役をしていた人は今でも重宝がられて、縁の下の力持ちで活躍している。こういう人には「この除雪機を使って」とか「この漬物を食べて」と返礼が来るらしい。返礼を求めてしないのがその人の仁徳や育ちの良さだ。困っていたら助ける、大昔からの生き方なんだけど。他人の自由を尊重する、なぜなら自分の自由やわがままを認めて欲しいから。
スマホや携帯の乱脈な使用は、この価値観から遠くなると思うがどうだろうか。瞬間でも「蒸発」したい権利と言い換えてもいい。高い所から世の中を俯瞰したり、自然や田舎へ帰るのだ。そのまま、「留守」を続けると「蒸発」になるから気をつけよう。日本で年間約10万人蒸発者がいると統計されているが、借金からの夜逃げが多いが、人口比で1200人に1人だ。そうなってはいけない。
昔の少年
スマホ、タブレット、自宅にノートPC、会社のデスクトップのMACとWindows。そのほかにも余り使われていないPCが3台ばかり身の回りにある。最近買ったスマホは画面が大きく小型PCのように便利だ。ただ便利機能の中でもGPSで追跡される事は避けたいのでその機能は活用していない。いずれ俳諧とかする事になれば必要な機能かも知れない。僕の自由空間は車の中だ。仕事は遊び半分だし、眠くなればどこかに停めて居眠りしたり、走りながらカラオケ・ルームにしたり、ほとんど一人で移動するから、クルマの中が一番快適な空間であり、自分の行動半径をも広げてくれている。特に年齢とともの遠くまで出かけるには足がついていかないが、クルマが助けてくれているから行動的にもなれる。でも、いつまで運転できるのだろ。ふと心配になるこの頃だ。