両親がダメ人間になれば「引きこもり」は治る(中島義道)
中島義道さんの「人生に生きる価値はない」(新潮文庫)という衝撃的な題名の本の41pにある。
街頭放送や親切過ぎるお節介な交通機関の親切アナウンスは活字を読んでいたら邪魔でしょうがない。札幌駅に降りれば、真正面の銀行の壁にビジョンがあって封切り映画や新しいCD発売のプロモーションビデオががんがん鳴る。札幌駅を降りてこの風景はないだろうと、去年12月、札幌市の広報課へメールして、担当の課へ回され、その日のうちに返信がきた。
これも中島さんの「日本のうるさい私」を昔、読んだ影響かもしれない。返事は「決められた条例の範囲の音量でしたから、問題がありません」と。札幌駅北口生まれの私としては、街としての品位のことについて言ったのに、観点を変えられての返事。通じない世の中になってきた。大きなイベントの告知でもない限り、静かな環境にしてほしい。
朝の通勤の静けさは、誰にとっても心地いいということがわからない。出付き看板も邪魔だし、電信柱も景観を害する。小さな頃からこの景観や騒音に慣れてしまうと気にならなくなるものだ。それが「普通」という感性を作る。
実は「ひきこもりは、この普通という価値観との戦いを日々している」と言ったら言い過ぎだろうか?「外に出たいけど出れない」「働きたいけどどう普通にしゃべっていいかわからない」「親からガミガミ言われる。何でもいいから学校や職場へ行きなさい」「世間の価値観に普通に従っていればなんということはないじゃない?」。
それと同じことをしろと迫る親に吐き気を催す本人たち。私の周囲にも30代の女性2人、男40代ひとり、知り合いの引きこもりがいる。男40代はもう15年になる。厳格な教員の両親、テレビはNHK以外はご法度。9時までには就寝だ。「引きこもって、いまはその家のご主人様になっている」。犬における権勢症候群みたいだ。
しかし、中島さんはそれを治す道があることを教える。それは両親がぐれる、犯罪や破廉恥行為を起こして、親たちが徹底的にダメ人間であることを可視化したときに治るという。息子は俄然、頑張るはずだ。親が善良な市民を演じ続けている限り、引きこもりは治らない。これはあくまでも家庭内で治す場合なので誤解のないように。
私は仕事(講演の依頼)で何か所も心療内科へ行ったが、見ていて、これは「家族病」だと思った。足元の家族の人間関係(深く見たくはないだろうけど)からきていると確信している。本当は心療内科へは家族全員が集って受診すると治りが早いと思う。なぜなら、本人だけでなく父親も母親も姉もみんな心療内科に来る病を持っている、普通ではないことを「一番苦しんでいる本人にも家族も苦しんでいることを知らせる」ことになるからだ。そうするとダメ家族のために彼は立ち上がるだろう。
なぜこうなるのか?中島さんは以下のように言う。「引きこもりとは両親に対する復讐にほかならないからだ。両親がおろおろすればするほど面白い、途方にくれればくれるほど、喜びが込み上げてくる。彼は、じわじわ相手の心身を滅ぼしていく復讐の喜びをもって、人間として最も卑怯な輩に転落したのだ。彼は時折≪死んでやる≫と自殺をほのめかす。彼は弱い者特有の卑劣極まりない手段で、最も扱いやすい者を最も手軽な方法で支配している」。43p こうした現象が日本全国津々浦々起きている。
何かの参考になればと思って引用した次第だ。
匿名
ある日、忘れかけていた片目に障害を持つ後輩が札幌まで訪ねて来た。以前から彼は独身でいつも沈んだ雰囲気を醸し出していたがあい変わらずだった。散々愚痴を聞かされた挙句「明日襟裳岬に行く・・・」?と言い出した。つまり自殺をほのめかしたのだ。僕は「行ってらっしゃい!」と冷たく言ってやった。その晩僕の家に泊めて、翌朝食事のあと僕は会社へ、彼は襟裳岬へ出かけた。そして翌々日、死にに行った筈の彼が、二本足でまた僕の前に現れた。喫茶店で少し話して彼を大阪へ帰した。それ以来、彼とは会って居ない。こんな荒療治な逆療法は心療内科医には叱られそうだが、周囲の皆が腫物に触るような接し方は悪化を助長するばかりだ。人が悩む時は自分で判断できない時で、本当は自分の答えを用意していて他人に確かめようと相談する。つまりその答えは「楽になりたい」思考がほとんどで、現状の苦しみから逃げたい一心から確認作業をしているに過ぎない。へそ曲がりの性格の変形判で、相談内容に反対して欲しいのが本音なのに「そうだね~そうしなさい」などとあっさり賛同してしまえば、予想外の答えに現実に引き戻されると言うわけだ。僕が診療内科医なら、こうするだろう。「藪医者!」と言われようが。
昔の少年
不真面目な親も自分の子供には欠点を隠すかも知れないので、昔から言う「可愛い子には旅」方式で、何らかの方法で家から、追い出すのがいいのかも知れない。可愛い子だったかどうかは知らないが学校でも社会人になっても寮生活を経験している僕はそう思う。あんなに嫌っていた親元もイザ離れた瞬間、ホームシックに掛かる。見知らぬ人の中に自分を置くと次第に自然に免疫が付いてきて、必然的に会話も生まれ、境遇の似た者同士の仲間もできて理解し合い人間関係を築いていけるようになる。そのうち不幸で貧乏な両親が余計な事をして自分を生み育てた事への憎しみなども消えてしまう。この場合も親は感知しないところで子供が育つ事になる。子供を小学校や中学校まで親元で面倒を見て、あとは多少の支援はしても人格形成の為に突き放すのも一つの方法ではないかと思う。しかし引きこもりできる環境と言うのは必ずしも家庭が裕福かと言えば、そうとも限らないようだ。親戚にも登校拒否の引きこもり兄妹が居る。この場合母親が離婚・再婚を何度も繰り返した結果シングル・マザーで仕事をしながら育てているので、目が十分に届かない上に、子供の精神が不安定になっているケースだが、両親が揃って居ない家庭でもちゃんと育つ場合と、両親が揃っている家庭でも引きこもったりグレたりする違いは何だろう?親の教育と一言で片づけるのは簡単だが。