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道庁のイベント手伝いで知り合いになった、日高で5000頭の豚を飼育する経営者とメールするうちに、豚について自分が何も知らないことに気づいて、図書館へ行き、牛や豚や鳥の飼育のコーナーに行く。「豚肉の歴史」(原書房 食の図書館)という本があった。ベーコンの原料さえ正確に知らない自分であった。豚のにわか勉強を始めた。

歴史上、豚肉は約7000年前、近東そして中国でユーラシアイノシシを家畜化したのが始まりと書かれてある。豚肉はその全部を食べられる。しかも「すべての食肉がそれぞれひとつの風味しかもたないのに対し、豚は50近くの風味を持っている」とローマ時代の博物学者大プリニウス(西暦29~79年)が書いている。しかも鳴き声以外は、捨てる部分がなく、血液でさえブラックプディングとして食す。

乳飲み子のローストが贅沢な豚肉料理らしい。北海道名物料理ジンギスカンも子羊(ラム)が成人の羊(マトン)より美味いように子供が美味しいんだ。残酷だけど。ギリシャ人は、ソーセージとして豚肉を多く食べていて、ローマ人は中国人同様、豚肉を健康に良くて、消化しやすい肉として「あらゆる食品のなかで最も栄養価が高い」(ローマの哲学者ガレノス)と断言。

ガレノスはさらに豚と人間の肉は味と匂いがとても似ていて「豚だと思いこんで食べたら人肉だった」という危ない発言もある。そういえば、中国でも魯迅の「阿Q正伝」に人肉入りの肉まんの話があったと記憶するが・・・。とにかくローマはあらゆる饗宴で豚肉が食された。子豚の丸焼きも出てきている。最古のレシピは「アキピウスの料理書」といい、奴隷の料理人を持つ裕福な貴族のために書かれて、その中にも豚肉料理が満載されている。*ポリネシアの食人種は人を「長い豚」と呼んでいる。

ローマ人はハムやソーセージはガリヤ(現在、フランス・ドイツ・ベルギー・オランダ・スイス)から輸入していた。ガリヤでは紀元前1000年前からハムを作っていたのだと。鬱蒼とした森林は豚を育てるには気候が良くて、豚を放牧しておいて、食べたい時に捕まえるのだと。燻製まで作っていた。

そういうギリシャ・ローマ・ガリヤ・中国で大人気の豚肉がなぜユダヤ教徒とイスラム教徒でフードタブーになったのかというのが次の話だ。

まずはユダヤ教徒。旧約聖書レビ記に、イノシシ(豚)はひづめが割れているが、牛やヤギのように反芻しないので、ユダヤ人にとって汚れたものだと。反芻する動物は植物から栄養を取り草食だけど、豚はありつければ何でも食べる。動物の死体も生ごみも排泄物も食べて町をうろつくので胸が悪くなると。別な学者は、古代ヘブライ人は豚は動物の分類に当てはまらない、割れたひづめを持つ動物(偶蹄)は草食動物なのに、そこから外れる。さらに遊牧民のヘブライ人は、勝手にうろつくのを好む豚より、群れで生きてくれる牛やヤギ・ヒツジを飼育するのに慣れていたと。なんだか私には屁理屈のような気もするが・・実際は、レビ記を書いた人間がただ自分が豚を嫌いだっただけで、それを一般化して作為したのではと思うがどうだろう?確かめようもない古い話だけど。物事は考える以上に単純なことが多い。学者の盲点だ。資料を出せないと認められない、下手したら主観だらけで学会追放の憂き目に遭う。「チベットのモーツアルト」を書いた中沢新一さんも教授会で東大就任を拒否られた。雑談でした。

紀元前2世紀、セレウコス朝シリアの皇帝は、ユダヤ教徒に豚肉を食べさせて、ユダヤ文化をヘレニズム化(ギリシャ化)しようとしたが、それを拒み処刑されたユダヤ人が多数いた。ヨーロッパは豚肉・ハム・ソーセージ文化であって、ユダヤ人は食品タブーの面でマイナスな局面に置かれていたのである

次はイスラム教徒だ。ムハンマドは旧約聖書に見つけた食品タブーを踏襲したと、この本(豚肉の歴史)には書かれてある。ムハンマドはユダヤ教徒が自分たちの宗教に共鳴して新たに信者になってくれるよう、旧約の部分を真似た(ユダヤ教の食品タブーを)のではないかなと。しかし、これを食べたら毒だとか病気になる、死を招くと言う食べ物ならいざ知らず、なぜ、人類は食品に対してこんなにタブーを設けるのか?この本はアメリカ人の学者なのでアイデンティテイ-という単語が乱発されていて、少しうんざり。

しかし、動物と性格という観点から考えると、英国人作家ジョージ・オーエル(動物農場)では、豚のナポレオンはリーダーとして、動物を虐待する人間(農場主)を追い出すが、追い出した後は独裁者として君臨、ほかの動物たちに呆れられ、恐怖される存在になり、最後はほかの動物仲間を裏切って人間と結託、ワインがぶ飲み・連夜のどんちゃん騒ぎをしてジエンド。貪欲な動物として豚を描いている。

 

  1. 動物に罪はないが、人間はほとんどの動物を捕獲したり飼育して殺りくし、解体して食している。生きるために必要ならまだしも、食の贅沢を求めんがために食する事も多い。肉になってしまえば原型は想像し難いが、目の前の現物を置いて食する方式はいただけない。例えば北海道で言うなら「羊ケ丘」に放牧されている羊を眺めながらの「ジンギスカン」。水槽の中の「活蟹」を指定して食するレストラン。ウナギなども鮮度を見せつける店も店だが、それを求める客もまた客。田舎の実家の旅館では鯛の活け造りを客に出すが娘は目を背けた。好きなはずのエビも「踊り」は絶対に食べなかった。これが豚や牛だったらどうだろう?普通の人間には耐えられないと思うが。鶏だって目の前でさばかれたら食欲どころか吐き気がするだろう。スーパーマーケットに綺麗に並べられた食肉の前で当たり前のように「安い」だの「今日は高い」だのしか言わずに平然と手にしている食肉も、原型を置けば購買意欲は無くなるに違いない。「好き・嫌い」で「食べる」のではなく「大切な命をいただく」気持ちは、失って欲しくない。

  2. 或る社長さんが「鶏肉は絶対に食べない!」と言うので、イベントの際の弁当には鶏肉を避けて発注したつもりだったが、入っていた。北海道では鳥のから揚げを「ザンギ」と言って、やたらと食べたがる。油っこいので食べないようにしていても、外食のランチメニューには必ずついて来たりするので、それが原因で僕はお昼の外食を辞め弁当に切り替えたくらいだ。社長さんが食べない理由を聞くと幼少期に買っていた鶏を「親父が鳥を絞めてクビを切り血抜きしたところを見てしまった」事が今もトラウマになっていると言うのだった。僕も同じ経験がある。アイヌは必要以上に狩りや漁獲をしない民族だったと聞くが、食べ物を残して捨てる文化が根付いてしまった現代、今日もゴミステーションには山のような台所ゴミがあちこちで目についた。大食い競争的TV番組も視るに堪えない。

  3. イスラムの戒律に則った食品を「ハラール」といい、ユダヤの戒律に則ったものを「コーシャ」といいます。
    これらは単に何かを食べないというだけでなく、屠殺の方法から、食材の組み合わせまで、
    複雑なルールがあります。
    インドは牛を食べないのはもちろんですが、ベジタリアンで、そもそも肉を食べない人が多いようです。
    中国人は何でも食べると言いますが、北と南ではかなり嗜好が違います。
    地方になるにつれて食に保守的で、基本的に新しい物は口にしない人が多いです。
    何しろ人口が多いので、「中国人は何でも食べる」というのは
    「地球人はなんでも食べる」というのと同じような意味しかないかもしれません。

    食のタブーを守る暮らしというと、まずいものばかり食べてるような気がしますが、
    歴史のある食のスタイルですから、そこからおいしいものが沢山生まれています。
    イスラム圏で生まれたドネル・ケバブとピタブレッドは、日本人の味覚に合って、
    屋台でも売られるようになりました。スーパーでは、ハラールミートを扱うところも増えてきました。
    コーシャはあまり聞きませんが、アメリカでは古くから知られていて
    ユダヤ人のための伝統的なコーシャの惣菜店が、現代的なデリカテッセンへと発展しました。
    ベーグルやローストビーフ、コーンビーフ(缶詰とは大分違います)などが、コーシャの代表的なメニューです。

    oldbadboy.com

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