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昨日に続きおひとりさま賛歌かもしれない。

向田邦子さんの短編のテーマの一つが、外にそれぞれリラックススペースと人がいて、みんな自宅にいるより伸び伸びしていて、ときに愛人がいたりして、事件らしきものが発生する。実はひとりひとりが孤独な毎日を送っている様子を描いている。夫や子供が家を出る月曜日、妻が晴れ晴れ、気持ち良くなるのもうなづける。本来、家族も他人同士が作る人工物だから人為的な存在・仕組みで、アチコチ壊れやすい。すべての犯罪は家族関係から生じるとまで言う人もいる。宇宙のブラックホールを探求するのもいいが、探求者自身の家族の足元は大丈夫か?それぞれが見えない家族や家庭を持っていたり、独り身だったり。その空間から社会へ飛び出してくる。

家族の中の危うさは古来、文学・戯曲でも普遍的に共有されてはいる。ハリウッド映画も、壮大な宇宙をテーマにしてその危機を乗り越える映画が実は父と娘の愛情がテーマだったり、ほとんど離婚率50%に迫るアメリカの日常の現実を背景に出てきているシナリオ、ホームドラマに急展開するストーリーも多い。

向田邦子さんは、最後は台湾での飛行機事故(カメラに凝りだしての撮影旅行であった)で51歳で亡くなった。私は昔から連続テレビドラマはほとんど見ないので、彼女の出世作「寺内貫太郎一家」は見ていないし、「北の国から」も見たこともない。NHKの「大河ドラマ」もほとんどみない。なぜだろうと考えると、そういう時間は(家族みんなで見る)という時間帯で、その過ごし方が少年時代から苦手であったのかもしれない。今と違いテレビは居間に一台しかないし。私の家にいまはパソコンを入れて3台のテレビがあるが殆ど見ない。

それこそ「ひとつ屋根の下で住むが、心はここにあらず」の人生を10代からずっと送ってきたのだと思うと納得がいく。向田邦子さんは40代前半で乳がんの手術を受けてから、再発に怯えながら丸山ワクチンも打っていた。ここに「向田邦子の恋」という本がある。久世光彦さんも「触れもせず」で彼女について本を書いていて、彼女は仕事が終わったら、ある時期から通い婚的な男性がいたと書かれてある。

その手紙も死後、妹の向田和子さんに公表されているが、「自分を写したカメラマン」と恋に落ちていた。彼には妻子がいるがいまは別居し、同居する彼のお母さんと彼のために食材を買い、料理を作り、仲よく夕食を食べていた。ここが彼女にとって落ち着く場所だった。彼女のドラマを批評も彼はしてくれた。脚が不自由になった彼は、自分がいるせいで彼女に余計な仕事を増やしたり、経済的な負担をかけていることに耐えられず後日、自殺したのではと推理されるが、原因は藪の中だ。

心浮き立つことのあとには淵がくる(向田邦子)

とはいえ、ある時期、彼女には自宅の外にそういう場所と時間があった。サラリーマンで会社の机に座っている方が自宅にいるより落ち着くと言う人をずいぶん知っている。理由をつけてなかなか自宅へ帰ろうとしない既婚者も多かった。赤ちょうちんへ行く酒好きも多い。世の奥様方も、きょうも市内のホテルでケーキバイキングに長蛇の列、がやがやお喋り楽しそうである。家庭に戻るよりずっとこのまま・・を願ってるかもしれません。ただいま恋愛中の人、結婚願望の超強い人には夢のない話で申し訳ない。

「虚の空間」が家庭で「実の空間」は外!?

作日も篠田桃紅さんの「ひとり人生」について書いた。そちらも未読なら読んでみてください。最近、筆者の書くものにおひとり様万歳傾向が強いかもしれない。夫婦の危機か。

 

  1. 幼い頃からそれぞれ違う環境で人格形成されてからの出会いは新鮮で、自分に無い物が他人に有る事で親しみや或る種の感情を抱いたりする。恋愛もお互いの探り合いで失恋に至ったり、結婚に結びついたりするが、結婚も実は探り合いで恋愛期間には見えなかった本当の部分が起因して暮らし方に影響してくる。所詮人は皆、我がままで思い通りにならなければ窮屈感を他に求めようとする。子供の頃、親たちが同じ経験をしていたはずで、今気づけば、親と同じように生きている自分が判る。現代の未婚男女が多い理由は、こんな親たちにあるのではとも思う。就職も結婚も始めて見なければ自分に合って居るのか居ないのか判らないのは当然。まさか恋文の相手が「鬼嫁」と化すとはどんな男性も思いつかないだろうし、憧れの相手だった白馬の王子様のはずが、「うっとしい生ごみか濡れ落ち葉」もしくは「鉄砲玉」のような亭主になろうとは想像しなかっただろう。「隣の芝は綺麗」の例えで、ほかの物も者も綺麗に見えたり、目移りするが、所詮中身は大差なくせいぜい「傷の舐めあえる」相手と意気投合する。自分が馬鹿にされない「リスペクト」してくれたり、「同等」に扱ってくれる暖かな陽射しを受ける場所が居心地がいいと言う事になる。それでも家庭を守るいじらしさは「子は鎹」で繋ぎ止められているからで、
    家を持つと言う事も、実は鎹的な意味があると思えてきた。考えてみれば見えない鎖でがんじがらめに捕らえられた奴隷同士のようだ。家庭の中身も、問題発言で足の引っ張り合いばかりで、つまらない国会にも似ている。

  2. 恋愛・失恋・就職・退職・失業・結婚、家庭を持っても離婚の危機など何回も来る。原因は雑多だろうが、その度にどちらかが折れて修復しながら暮らし、どこかで根に持ちながら生きている。どんな親友でも一旦ヒビが入れば疑い、完全な復活など望めないように結婚生活も同じ。どちらかが「馬鹿」にならなければ続かない。外でどんなに偉い立場にあろうとも家庭では「ただのオッサン」と言うわけだ。面倒だから「妻を立て、尻に引かれる」スタイルが一番「家内安全」。しかし、この夫の思いやりも、実は夫を、とことん追い詰める事になる。妻は「快感」を得たりと好き勝手に主導権を振りかざし家庭内での主人たる夫の居場所を無くして来る。従って居場所の与えられなくなった夫は外部に「身の置き所」を探し始めることになる。男は単純な生き物で、褒められれば喜び、尊敬されれば木にも登る。こんな習性を上手にコントロールして円満な家庭を築く利口な女性も居る。夫が「馬鹿」を演じるか、妻が「良妻」を演じるか、「鬼嫁」になるか、結婚生活はお芝居そのものだ。

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