「平和が欲しかったから人間は戦争をしてきた」?!
なだいなださんの『民族という名の宗教」~人をまとめる原理・排除する原理~(岩波新書1992年刊)はどうして人類は戦争をし続けてきたのかを、ホモサピエンスの誕生時から、部族の出現と移動民から定着民へ、大きな部族にするために小さな部族を統合や排除してきた長い歴史について先生と生徒(自分の考えを持った)との対話形式で優しい日本語で、しかし深く書かれてある。
昨日のブログは昨年のブログの再掲載ながら、筆者は『戦争の原因』として3つのことを書いた。『所有』『過剰な愛』『言葉』の3つである。詳しくは、昨日のブログを読んでいただくとして、今回は一神教が出てくる以前、それぞれの小さな部族が生きるために、食べ物や外敵を逃れて移動する話。ひとりの人間ほど弱い生物も世の中にはいなくて、たとえばサバンナにひとり自分がいて生き延びられるか想像してみればわかること。蟻の大群にさえ食われてしまう。
だから集団を部族を形成していったわけであるが、その集団をまとめるために強いリーダーに従う家族(部族)ができて、隣の境界線にいる部族と食糧や水の取り合いをしたわけで、負ければ、生死を賭けて多くは北方面への移動をし続けてきたわけである。何をおいても最優先課題は『家族(部族)が平和に食べて生きられること』。問題はこの次で、家族も増えてきて養う人たちが増加して『より多くの食料と水、家畜の草』を得るために、他の部族と戦争をして奪う行為、他の部族を虐殺することである。
この場合、戦争は狭い意味の(家族や部族といった)内向きの集団がより平和に暮らせるために、残念ながら隣の部族には犠牲になってもらう(またはローマ時代やアレキサンダー大王は市民として降伏してもらい、穏やかな帝国を形成する場合もある)。『人をまとめる原理』として、ローマはキリスト教をうまく利用して国教にして広大な部族の違いを超えた帝国を築き上げた。パックス・ロマーナ。戦後、アメリカが冷戦(旧ソビエト中心の共産圏を敵として)を利用したパックス・アメリカーナも同類である。
従わない国々にはCIAを利用したりして、内部攪乱を行い、1945年を過ぎてからも出張して戦争をし、止めたことがない。実は、人類の歴史は戦争の歴史ではあるが、その裏に『平和を求めるために戦争をしている』一面が隠されてるようにも見えるのだ。極端な話、どのマスコミにも書かないが北朝鮮のキム・ジョンウンも『北朝鮮国内だけの平和』『自分の政権維持のためだけの平和』を希求しているがゆえにおかしなことばかり(外交)をしていて、安倍政権に似ている気もする。
『人をまとめる原理』は『人を排除する原理』の上に乗っかっている。敵を想定した生き方は十分にイデオロギー的な考え方に浸っていると考えた方が間違いない。しかし、この『平和のために戦争をしてしまう』国家や首長や部族長は、アフリカで誕生したオーストラロピテクス以来、類人猿に課されたテーマかもしれない。私が自宅の庭のバラを1本摘んでいる同じころ、飢えて息を引き取る子供もいたり、難民で国境越えや地中海のボートで無事にイタリアに上陸できるか、現在進行形で生きてる同じ人間がいる。世界はそのくらいたくさんの事件と並列で生きている時代なのである。貧者の上に税金でブラジルへ行っているオリンピック選手がいる、そのくらいは想像力を駆使してみたいものである。なぜなら、オリンピックの起源は都市国家同士の休戦をするための疑似戦争で、武器を持たず男が裸で女人禁制のなか、競ったのが始まりだから、政治臭はプンプン。
私の周りにオリンピックを一切見ない人が何人かいる。共通はテレビを置かない、新聞を取らない家でスポーツ嫌いが共通であるが、世の中にはそういう人も、少数ながらいるという認識は持った方がいい。フランスワールドカップ開催時、街中の喫茶店で休みながら読書をしていた女性が『うるさいわね、早くサッカー終わらないかしら!』と歎じたのに似ている。
百済語。
日本人は一体どこから来たのだろうか?などと良く聞くが、人類の発祥の地はアフリカだと言われている。アフリカの大地は今も動物たちの楽園でもあり、それだけに生存競争も激しい土地とも言える。つまり、北に行くほど虫さえも生きられないほど気象は厳しい反面、安全で害敵が少なかったのだろう。ましてや、海に囲まれた孤島のような日本などは最も安全な土地だったに違いない。とは言え、同じ部族間でも陣取り合戦は行われ、その名残が現在の都道府県を形成しているのだろう。例えば僕が幼少期に住んだ福井なども、さらに嶺北(越前)と嶺南(若狭)に分けられていた。田舎には峠が二つあり、そこが関所で国境だった。小さな県でさえ二つに分かれ言葉も大きく違っていた。関西弁と越前弁と言えるが、不思議と越前弁は韓国語のイントネーションそのものなのだ。日本海に面した越前は百済から到来した部族が住み着き、現在に至り、今もその血を引いているのだろうか。