おおきな木(シェル・シルヴァスタイン著)
この本は1964年10月にアメリカで出版、1976年篠崎書林から本田謹一郎さんが翻訳されて広く読まれれていた本だ。「T・Sエリオット研究序説」とか「アルノ河岸から」と2冊、篠崎書林から出している。ヨーロッパ美術が好きで「アルノ河岸から」はご夫婦でのイタリア美術紀行文。どちらもそんなに売れてもおらず、篠崎書林としては「おおきな木」が全国でどのくらい売れたのか、ある意味、ドル箱的な童話だった。
その本が2010年あすなろ書房から村上春樹訳で再度出版。先日、本屋の絵本コーナーでこれを見つけて、本田謹一郎さんと学生時代、多少の親交があった筆者としては、たとえ訳者が物故されたとはいえ、奥様や息子さん娘さんもいるわけだから(奥さんのその後は不明)彼らが印税放棄をしたならわかるが、常識的に考えられず、どういう経過で権利関係が移っていったのか。しかも、もう定本という位置を確立してきたものにあえて、村上春樹訳をぶつけずそのままの翻訳であすなろ書房は出版できなかったのか?テーマはひとつ「Loe is Giving」。
少年と大きな木(リンゴの木)の交流をやさしい言葉で書かれてある。あとがきで村上春樹さんは本田謹一郎さん物故ゆえ云々を3行書かれてはいたが、こういう本の翻訳を村上春樹さんはなぜ断らなかったのか。新しい本、まだ未発表で紹介したい本を出すならまだしも、すでに定番(名訳)のあるものは避けるのが物書きの良心ではないだろうかと筆者は思う。偏狭だろうか。
たとえば明治時代のヘーゲルやカント訳を現代語訳にするとはわけが違う。アラビア語→英語で書かれた「コーラン」を日本語に訳していたものを、直接アラビア語から日本語へ翻訳するならわかる。誤訳だらけの本を訂正する意味で新訳を出す人もいる。原題が「Giving Tree」ですでに本田訳でこの本の題名が「おおきな木」で定着しているから、私(村上)も題名を「おおきな木」でそのまま使わせていただきましたと村上春樹は言うが、英語の文字数から考えても、そもそも訳す必要のない本だったのではないかな?意地悪な言い方だけど。
読み比べて、本田訳は漢字をゼロ、村上訳は「木」「少年」「木の下」「森の王さま」「ある日」「買って」「売りに」「家」「切り」「楽しく」「歯」を漢字にしてひらがなのルビを打っている。
最後に本田謹一郎さんのあとがきから妙出する。「これは児童書のなかでも、きわだって独特な位置を占めるのではなかろうか。では。なにが独特だというのか。なにが、読者の強い関心をそそることになったのであるか。絵のもつ不思議な魅力もすてがたい。しかし、なによりも、それは、児童書に珍しく、背後にひとつの確固たる思想がよこたわっているということ、これをおいて考えられまい。」(篠崎書林版から)Love is Giving。酔ったら先生は必ず、この話をしていた。私のなかでもどこかでこのフレーズが生きている気もする。
昔、昔の少年
小学校低学年の頃、絵本には大変お世話になった。貧しい僕の家には、本らしき物はほとんど無く、歩いて5分圏にある小学校の図書室で読んだ記憶がある。学校では絵本、戸外の木陰では漫画本をよく読んだ。絵が好きで得意だった僕は将来は絵描きか絵本描きになりたいなどとも考えたりしていた。夢は実現しなかったが、今でも絵本には多少の興味を持っている。でも、この絵本の事は初めて知った次第だ。