ベルギーでのテロ事件を受けて(再々録 2015年11月15日)
聖書とコーラン、処女。そしてクセ。
3月21日のブリュッセルでのISの自爆テロ、イスタンブールでの自爆テロ。いったい、彼等の観念の中に何があるのか?そのヒントが故米原万理さん(ロシア語通訳)が書いた本に隠れている気がしてしょうがない。セクショアリティな観点から書かれてあるから、男の自爆テロには当てはまる気もする。自爆テロは防ぎようがない。
ロシア航空機自爆テロの可能性、パリでの7か所テロ。どちらも死を恐れないイスラム教徒(?)の可能性が大で、そもそも死んだらどうなるのか?という洗脳がされていないと行動へは移せないはず。コーランの中の言語から説いた「米原万理さん」の文章があったので再録します。キリスト教の処女懐胎の話から始まります。4月9日に書いたものです。ますますこの国も含めて、薄気味悪い世界になってきている。学生時代に16世紀の宗教戦争や十字軍戦争を少し勉強していたので、時代が逆戻りしている錯覚さえ覚えるのは私だけだろうか?
誰が書いた本か忘れたが(最近メモを忘れる)、聖書の中にある処女懐妊の話。『私は、ギリシャ語訳旧約聖書をつくった学者たちが、〈若い女〉というヘブライ語を〈処女〉というギリシャ語に誤訳し〈見よ、処女は、はらみ男児を産まん〉という予言を付け加えたとき、彼ら(翻訳者たち〉は大変なことをスタートさせたといえる』。ヘブライ語のままなら「見よ、若い女ははらみ、男児を産まん』という平凡な話になってしまう。もし、誤訳ならば、無意識な誤訳なのか、知っていての作為の誤訳ならその意図はなんだろうか。推理小説めいた話で、それでも処女懐妊を信じる人がまだまだいるわけで、そういう論争に私は入る言語力もないのでこの話はここまで。
次はコーランである。2006年に亡くなられた米原万里さんの遺作「他諺(たげん)の空似(そらに)」~ことわざ人類学~(光文社)(160p~162p)に『コーランには、苦闘の末、天国にたどり着いたイスラム教徒たちを〈HURが待ち受けている〉と記されている。このHURを神学者たちは〈処女〉と解釈してきた。72人の処女の妻に迎えられるのだというイメージが広がった。しかし、コーランの多くの語彙は古代シリア語やアラム語から借用されていて、このHURはアラム語で「白」を意味し、「白い葡萄」を呼ぶ略語としてたびたび用いられてきた。この解釈を発表した学者は身の安全のために偽名を名乗った。
天国に白い葡萄がたわわに実っていても、72人の美女にはかなわない。」葡萄をたくさん食べるために自爆テロに志願・参加する人間は、そういないとは思う。しかし、自分の肉親を次々殺され、職場や住居を破壊され、底なしの絶望状況に追い込んだアメリカやイスラエルの犯罪はとても真正な宗教を持つ者のすることではない。今回ははからずも、「若い女」「処女」の扱い・言葉をめぐって、翻訳という作業がどれだけ信者の信仰形態や言動に影響を及ぼすのか。
「敗戦」を「終戦」に、「値上げ」が「改定」に言い換えて明確な表現を避ける。江戸期の思想家・富永仲基が儒教・仏教・神道を国民性の違いで”くせ”と名付けた。儒教は文辞、いまの弁舌なりと。仏教は幻術なり。神道は隠す癖があると喝破した。隠す・・か。「倚(寄)らしむべし、知らしむべからず」が、ずっと続いてるのかもしれない。国民の生命・財産にかかわる重大な年金問題、沖縄返還交渉の内容、核兵器の3大原則を実は無視して空母寄港、福島原発の希望的観測ばかり発表した学者たち、大きな声で断定的に説教する人間には嘘が多い。聖書とコーランの話から話題が離れたが、富永仲基については、加藤周一著作集第3巻318~319pを参照されたい。31歳で 病死しなければ、個人名の出ない歴史を人類史上初めて書いていたかもしれない。
匿名
宗教に詳しくはないが、日本人の若者もネットでつながり、ISに参加志願している事実。平和とされる現代に反旗を翻し体制を壊そうとしているのか。参加しても鉄砲玉として使われるだけだろう。テロ後のISからのメッセージには「報復」とか「復讐」とか言う言葉が入っている。つまり「仕返し」だ。どこかで被害を受けた者が仕返しを企てるのはわからない事でもないが、日本人の若者は一体誰に向かって仕返ししようと言うのだろうか。加害者、被害者の当人同士ではなく「やりやすいところでのテロ」は仕返しではなく、無関係の人々を巻き込んだ「脅し」ではないだろうか。これでは世界を敵に回している事になる。警備はするが攻撃はしない良識ある国々さえも敵に回して、罪の意識は全くないのだろうか。どんな宗教でも、「殺人」や「戦い」を教えてはいないと思うのだが。どうせ死刑なら自爆で自らを裁く様は切腹にも似ているが、爆弾での巻き添えはいけない。