テレビや新聞にとって地獄は生活者の天国であるかもしれない。
6年前、勤めていた会社の社内報に「きょうは、ニュースはないので、新聞はありませんし、テレビもお休みですから、のんびりお過ごしください」という記事を書いた。毎日、毎月、毎年の営業に疲れていたかもしれないが、どうもマスコミ業界が嘘くさく見えてきたのだ。落ち着いた暮らし、静かな家庭生活を混乱させる、いらだたせる元凶がひょっとしたら、自分が末端で関わってる業界にあるのではないかと気づきだしてからだ。
「何か新しいことはないか」「何か変わったことはないか」「何か経済界の話題はないか」「倒産の噂はないか」「新しい企画はないか」など、まるで「新しい」が「宗教」になっている業界、ここは宗教の世界かもしれないと思い出した。「NEW」に「S」を付けて「新しいの複数」形だ。「何か」が起きないと、「変化」がないと「ニュース」が作れない、記事を書けない。テレビのニュース番組で記者は記事を書けない、カメラマンも失業する。ニュースや記事が何もないときは、静かな日常が戻る。1週間テレビを切り、新聞も読まない、パソコンでニュースも見ないで過ごしてみると情緒が安定する。
変化の欲しいマスコミ、事件が欲しい記者、特ダネを追う週刊誌、退屈な日常を紛らわす非日常的な事件。時々、テレビや新聞を意識的に排除する日を作っている。少年時代から新聞は大好きだったのに55歳くらいから朝刊を読まなくなった。軽い鬱症状が出てきたのだ。いちいち書かれる記事やニュースに自分流の解釈を入れる自分に疲れてきたのだと、いまなら思う。当局発表を垂れ流す、無難な記事ばかり作る、反骨を失ったメディアに携わる人々のサラリーマン化した姿が見たくないのだ。
熊本に震災が発生して、娘が大分にもいるし、10万人に達しようとする避難民をみて、さすがにニュースは欠かせないが、本当は、静かな日常を送りたいが、自然がそうはさせない。被災民や避難民が一番強く思うのは、「静かな日常生活に戻りたい」「自宅がもとのままの姿で戻り、地震前の暮らしをしたい」こと。たぶんそれだけだと思う。
未来を考えるのが怖い。崩れた家を建て直すのに幾らお金がかかるのか。この年齢で返せない金額になったらどうしよう?仕事は前の通りあって、収入も確保されるだろうか?子供たちが普通に学校へ通える日はいつなんだろう?新幹線も通り、鹿児島まで観光客がすいすい来れる観光地に戻るまでにホテルや旅館や旅行業はどうなる?国や自治体はどこまで天災に対して補償をしてくれるのだろうか?熊本城再建まで20年かかるらしい。他県の親戚や親から一時避難して来なさいとも親切に言ってくるが、狭い家に押しかけるのも心苦しい。しかし、大分の娘はケロッと万が一の場合、北海道疎開計画を立てている。亭主を残して。
それ以上に、まだまだ地震は続くのだろうか?将来の人生設計を考えたら気が狂いそうになる。それぞれ置かれたところで少しでも元の日常生活へ近づこうとする被災者たち。何も事件のない日常は本当は尊いものだ。実は天国なんだ。メディアにとってはしかし、ニュースがないのは地獄。不思議な関係ながら、私は日常を選択する。
昔、昔の少年
静かな場所は僕も大好きだ。が、要所、要所での情報は必要かと思う。僕の親父の場合、東京湾でハゼ釣りに興じているころ「トラ・トラ・トラ」の真珠湾攻撃の真っ最中だったと言う。僕は東京出張で乗ろうとした飛行機の予約を翌日に変えて帰宅したらあの飛行機事故のニュースが自宅のTVで流れていた。東北沖も今回の九州も、テポドンも、ネットかTVで知る事ばかりだ。しかし、この現代の世から電気がなくなれば、どんな手法で情報伝達するのか?と、ふと考えた。