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とうとう、ようやくこういう本が出た。筆者は待ってましたです。2016年1月24日に書かれた宗教学者島田裕巳著「殺戮の宗教史」(東京堂出版 285p)を読んだ。筆者は以前、フロイトの「モーセと一神教」や岸田秀「一神教と多神教」について何度かブログに書いた。

骨子は一神教の持つ残虐性、多神教の持つ穏健性(あれも神、これも神と認める寛容性が多神教にはある)であった。しかし、考えてみると平安時代や鎌倉時代、戦国時代も十分に残虐な殺戮が行われた時代で、それは信長や秀吉の時代であっても同じである。NHKの歴史を題材にした番組から当然殺し合いが行われているにも関わらず、その作戦はどうであったか、主君への裏切りはあったかなかったかと、まるで現代の企業の上司と部下の関係をアナロジーするお得意の視聴率稼ぎのわかりやすさに終始している。

そこには実際の戦乱での「血や生臭い遺体の匂い」を消した歴史マニアの知ったかぶりの整合的な発言ばかりが目立ち、それこそお茶をすすりながら見れる番組に仕上げている。仏教が主流の時代であっても、危機になれば僧も武器を持ち、寺を守り、比叡山のように戦う教徒に変身する。

別に日本の歴史を特殊化しないこの本はテーマが「人類の歴史は、仲間に対する殺戮の歴史」「人間の世界に特徴的なのは、人間が仲間を死に至らしめることがあるという事実である」「少なくとも、人間に近いチンパンジーは同類を殺すことがあるとされるが、チンパンジーは人間に近いからである」。*現生人類のオーストラロピテクスの頭蓋骨に殴られた陥没箇所がある。(アーサーケストラー、機械の中の幽霊)

人間は仲間を殺す動物だから、それは生来の性質だからモーセは「汝、殺す勿れ」仏教の五戒においても「人を殺すことを」戒めているのである。その点で、実は宗教は「殺戮を抑える役割を担っているはずであった」そして、当然、この本は宗教は殺戮を戒めるが、一方殺戮を促す働きもしていることを実証しようとし、さらに未来へ向かっての展望を語っている稀有な本で、島田さんだから書き得た本である。

特にISはじめイスラムに相当なページを割いている。このブログを書きながら(6月13日)フロリダ州オーランドで自動小銃で50人を殺害する乱射事件のニュースが入った。島田さんは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が同じ神をいただきながら、信者の心の中で微妙に働き具合が違うことを再三述べている。それは歯止め、中世のキリスト教による十字軍遠征は教皇や教会という組織がバックにあって、そこから指令なり指示が出る。イスラム教徒は自分で歯止めをしなければいけない。

しかし、イスラム教徒はその教会にあたる組織がない。敢えていえば部族しかない。個人が直接アッラーとつながっていて、間接的な抑制がない。すべてが自分の胸のうちで決められるから、テロが発生しやすい。大方のイスラム教徒は穏健で、テロを行う彼らを軽蔑はしているが、構造としてそうなっていると書かれてある。

組織がないから、1本のメールやSNSが拡散で、いつどこでもひとりの独断で行動できるというのだ。宗教の力が世界中で弱まってる中で(日本でも既成仏教の檀家や新興宗教人口は減っていてどうするか困っている)、イスラム教徒の人口は2030年には人類全体の四分の一になると推定されている。

これから世の中は無宗教圏とイスラム圏に分れると島田さんは予測する。第二回は、対立を生み出す二元論(善と悪、正統と異端、聖と俗)の発生について書くつもりだ。島田さんは「殺戮の宗教史が幕を閉じるとき」を夢見ながら書いている。最高の理想は宗教学を学びながら「人類全体が無宗教という方向へ向かう時では」とも。筆者のブログカテゴリー「宗教会議」に中途半端ではあるが書いてある。

きょうのブログはここまで。第二回はいつになるか。ちなみに、私のカテゴリーで「宗教会議」「老子・イソップ・哲学」を開くとこれまでの私の書いた宗教ものが読めます。島田さんの本は再度読まないと2回目がまとめられない。さらに、モーセも仏陀も架空な人物かも。宗教の開祖で自分で文字表現をしたのはマニ教の開祖マニだけ、モーセもイエスもマホメットも仏陀も孔子もソクラテスも全員弟子の聞き語り、記録。大いに改竄が可能な世界だ。

  1. 祖父までは宗教家だが、三代後の僕になると、仏壇は預かっているものの無宗教に等しい。大体、仏教徒の祖父の息子の父が成人してキリスト教に興味を持ったのか、日曜ミサに行ったりもしたそうだが、世界的な殺りくが行われた第二次世界大戦後は苦しい生活を守るだけの暮らしの中で、神も仏も信じなくなったようだ。僕もそんな父の影響もあってか、田舎の慣習としての仏教行事や神事には参加してはいたが、仏教も神道も知らない。さらに僕の息子や娘や孫たちにしてみれば当然教えられていないから僕以上に無宗教化している。良し悪しは別として、日本に限れば、現代っ子たちに無宗教化は確実に拡大していると考えられる。第一に寺小屋に変わる学校の中でも、数少ない仏教系やミッションスクール系以外では宗教の授業時間など無いので、神仏については昔話や童話などで読みかじり、聞きかじる程度だろう。あの過激なテロ組織「IS」なども、自分の身を投じてまでの殺りくを扇動させている者たちも、どこまでが信者なのかも疑わしい。組織の後ろは安全地帯で居心地がいいのだろう。

  2. イスラム教徒は北海道でもかなり居ると推測される。その実態を知らない僕などイスラム教や教徒について詳しく語る事も出来ないが、現実として知るところでは、レストランやホテルなどでも肉料理に気を配ったり、食材の生産者もイスラム圏を輸出先に持っていたり、中古車オークション会場には彼ら専用の祈りをささげるためのスペースまで設けているし、ジェネコンだってイスラム圏の仕事を受注もしているわけで、交流も盛んになる一方だ。首都圏にはモスクまであったりする。考えてみればヨーロッパなどに仏教のお寺など無いのに、モスクは、世界中どこにでも建立されている。それだけ信仰心が強い表れなのだろう。教徒個人の心の中までは入り込めないのでその実態は理解できないが、他の宗教に比べても、身近にも確実に拡大しているようだ。私たちの好き嫌いとは関係なく。

  3. 自分たちの組織の戒律は全世界共通のように振る舞うテロ。その度に宗教系の名が挙がる。その活動に賛同する若者たちも実在はするが、テロ活動は、むしろ、その宗教を広めるどころか多くの敵を作る事になり、不満分子の集団のテロ組織は出来ても、布教にはならないと思う。殺りくを繰り返す毎に世界中の真の教徒を欺き、名乗る宗教全体が世界を敵に回す事にもなる。宗教に限らず、軍事力や核兵器を脅しの道具にしている彼らも同じ事だ。

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