湯川博士、原爆投下を知っていたのですか。
2015年7月30日に新潮社から出版されていて、先月、図書館から借りてきて、まるで松本清張の推理小説を読んでる心境になった本で、再度借りて紹介しようと決めた。敗戦後の焼け野原の日本で湯川博士がノーベル物理学賞を受賞して、明るい話題を振りまいた。
しかし、この本の題名を見ればわかるとおり、湯川博士は広島に原爆が投下されることを事前に知っていた節があり、彼の最後の愛弟子森一久が広島出身で当時両親も存命であった。教えてくれれば、すぐに両親を広島から離れるよう連絡できたのに知らせてくれなかった。おかげで両親と兄夫婦5人を原爆で死なせてしまった。しかも母親の遺体は見つからない。なぜなのか?そして森一久さんの被爆とその後の人生を追った本だ。数奇な人生でもあり、原子力基本法の3原則「民主、自主、公開」を作成したのも森さんだ。
その疑問に答える博士はもういない。森さんは1944年9月に湯川博士のいる京都大学物理学教室に入って、先生に師事した。湯川先生も上京すると真っ先に森さんを訪ねてきた。森さんは当時、中央公論の科学雑誌「自然」に配属されて、原子核物理学、原子炉開発などの特集を組んでいた。森さんは20代後半、若手の物理学者を集め、原子力談話会など自主研究会をつくり、原子力の利用を急ぐ政治家や経済界の動きを「拙速だ」と批判する運動を展開していた。
その森さんが湯川博士が亡くなって20年を経た2000頃から、毎日新聞の記者だった藤原章生さんに依頼して、ことの真相を突き止めようとしたのだ。19歳の夏、親の面倒を見ようと帰郷した4日後、原子爆弾が落ちた。実家は爆心から1キロ。奇跡的に森さんだけ助かった。突然、待ち合わせの帝国ホテル喫茶室で森さんは藤原さんの前で「お袋がみつからないんですよ」と嗚咽を始めた。
森さんは70歳を過ぎて、京大工学部冶金学教室に同期の広島高校出身者に水田泰次さんがいて、彼の手記に、「広島に新型爆弾が落されるから、家族を疎開させた方がいいとある教授に言われてね。当時、アメリカでは最初の原爆を京都か広島にという話があって、落とすことはないという声もあったそうですが、落とさなきゃ、あの国はだめだ、という会議があった」を読んだ。
さらに1988年10月発行の高校の部誌で「4月に入学、5月5日に冶金の教室主任の西村秀雄先生に呼び出され、広島市内に住居があり、親のいる冶金の学生が小生ひとりだけなので、内密に情報を教えていただきました。米国の学会から秘密裏にニュースが先生に送られ、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第一回目テストを広島で行う予定が決まったから、できるだけ早く親を疎開させなさいということです。~相即、親を有無を言わせず大八車に家財を積んで逃げたわけです」。
この文章を森さんは2000年に目にする。森さんは水田さんに電話して、詳細を聞くと昭和20年5月に疎開の話、特殊爆弾が広島へ落とされる西村教授の話を(湯川さんが黙って座っていた)というのを聞いて、森さんは複雑な気持ちになり、考え込んでしまう。1981年に湯川先生は死去されてるから、本人に確かめようがない。
彼は日記に「なぜ、湯川先生は私に言ってくれなかったのか」「だから、先生は私を大事にしてくれたのか」その後、森さんは水田さん本人に会い、確かめた。「あのころ、そんなことばらしたら(広島へ新型爆弾投下)大変よ。大学の中にも軍人入っていたから。」
アメリカの資料で調べると、マンハッタン計画で標的を決める会議が1945年4月27日に「目標委員会」が開催され、軍の高官と科学者11名出席。投下目標の優先都市は広島、八幡(北九州)、横浜、東京の4都市。広島については「まだ被害を受けていない最大の地域で、空軍の優先目標地になっておらず、考慮すべし」。そして考慮した結果の原爆投下だ。八幡以下は、すでに空爆を受けており、優先度は低いとも書かれてある。目標委員会はその後、5月10日、11日の2回で、候補地は京都・広島・横浜・小倉(北九州)に変わり、最終的に京都が外され「広島、小倉、新潟、長崎」の順になった。
水田さんが西村教授に呼ばれたのが5月5日だから、第一回と2回目の目標委員会の間だ。広島を最優先にしている時期だ。いったい、西村教授はどこからその情報を得たのか?西村教授の推理「まだやられていないのは、軍都、広島と京都だ。間もなく空爆があるだろう」という推察なのか?戦前からジュラルミンなど軽合金に関する世界的な権威であった西村教授であったから別なニュース取得先があったのか。それにしても湯川博士は「原爆投下を知っていて、なぜ森さんへ話さなかったのか?話せなかったのか?原爆開発は知っていたはず」なのに。2010年2月3日、肺炎にて森一久死去。84歳。
昔、昔の少年
情報は秘密にするほど漏れるのでしょう。「ここだけの話」はネットに乗れば一瞬にして世界中にばらまかれますが、その当時は、無線か、電話か、モールス信号での暗号解読か、手紙か、電報か、人から人と、言っても外国との間で、まして対戦国からの情報入手は難しいと思われる。僕のデザインの先生も原爆投下当日に広島に居たが、たまたま電車で郊外に出かけていて難を逃れた一人だった。科学の進歩も軍事目的からがほとんどと言っても過言ではなく、優れた科学は軍事に全て利用されている。各国の科学者同士の交流は戦時中にもあったのだろうし、命を引き換えに軍の口止めは有ったにしても当事者の科学者は真相を全て把握していたのかも知れない。
匿名
過ぎてしまった事とは言え、驚きの真実?ですね。もし本当なら湯川博士への見方も変わるでしょうね。でも亡くなっていますから確かめようもありませんが、投下を知っていた人が国内に居た事は事実で、国がいち早く情報収集して投下日時を把握して居れば広島から多くの人を標的にならない田舎に分散疎開させる事も出来たかも知れませんね。それにしてもアメリカは原爆投下に対して、余り責任を感じていないとは思いませんか。日本も同じ事を考えていて、先を越されて未遂に終わっているだけでしょうが。あの悲劇を体験済みの日本ですが、核兵器製造の延長線にもある原発再稼働はいけません。