無名であることのありがたさ。
道を歩いていても、他人は誰も振り返らないありがたさに幸せ感を感じたことはないだろうか。それが普通の日常生活、自分の存在がたくさんの人に知られる窮屈さや不自由感は誰でも想像できる。会社の事務員を見ていると、昼休み、仲良しとランチへ出かける人もいるが、ひとりで出かける女性にはホッとした顔が見える。若いときは有名になりたいとか大金持ちになって目立つことに価値を見出す人もいるが、私の周辺には少ない。地味こそわが人生、縁の下の力持ちが多い。
何度かブログで書いたが、個人名が出てこない歴史を書こうとした人が江戸時代にいた。31歳で死去した大阪の富永仲基だ。昔の人は早熟だ。その意図するところはぼんやりではあるが、この年齢になるとわかってくる。歴史を内在的な連続性としてとらえる見方を提示している。個人の関与を低く見て、何か歴史を流れとしてみる。その流れに沿って決め事をしていくと思えば、個人の決断より、世間の深いところでの動きが大事になる。後の人は前の人の理論に付け加える有名な『加上の論理』だ。空間や時間を無視した神道・仏教・儒教のすべて(特に仏教)を批判の遡上に上げた稀有な思想家である。
有名になって、最後は幸せな最後を迎える人って一握り。果たしてそれが本人の望んだ幸せかどうか不明である。それどころか、誰にも幸せな最後はないのかもしれないなとも思うし、最近は孤独死や孤立死に積極的な意味や見直しが出てきている。孤立死も理想の死に方だと。二人で住もうが三人だろうが死ぬのはお一人様でしかない。近所で70歳で奥様に先立たれた人がいるが、1年経過して、元気回復してあちこちで農作物の作り方を講演して回っている。
私も偶然、妻に先立たれて一人になったら、何をするか考えるとすぐに思いつかず、困ったものである。子供に迷惑をかけてもいいという人がいる一方で『野垂れ死に』の覚悟を説く人もいる。どちらにしても、自分のライフは自分のライフ。子供に経済的な独立を促した後は、恵まれない他人のために後半生を送っていきたいと思うこのごろである。手始めは、困ってる隣の人を助けることで、企業でも世間でもできるようでできないアクションである。分断された人間関係が横溢する現代、軽々と壁を突破できるユーモアや他人との距離感を維持したいと思う。自分が一匹の虫であっても、好奇心旺盛な世界虫(司馬好漢の言葉?)でありたいものである。