フェイクという言葉の使い方あれこれ。
フェイクニュース「偽ニュース」とかフェイクツルース「偽の真実」とメディアで踊る言葉になっている。12月27日「ニューズウィーク」も独裁者とSNSフェイクニュースの世界と題して特集をしている。サブコピーもポピュリストや暴君を助け、民主主義を蝕むソーシャルメディアの誤情報と長いタイトルだ。もちろんトランプ批判だ。
ファッションで革製品で本皮に対してフェイク(人工皮)と言ってた思う。必ずしも「嘘」ということではなく、誤りの中に真実も隠されているから注意したい。「真実は神のみぞ知る」「真実は藪の中」のほうが多いのが現実であるからだ。私もブログでフェイクという言葉の使い方を立花隆「エーゲ」の本の中で見つけて気に入って引用したことがある。私たちが知っている歴史が全体の微小な部分でしかないことにギリシャの無名な廃墟を見ながら発した言葉だ。再録する。90本目のブログ。現在は671本になる。
立花隆「エーゲ」
お陰様で3月18日から始まった「太古につながる生活者の目」というブログが90本目を迎えることになりました。途中から読み始めた読者もいらっしゃるかもしれませんので、3月20日に書いた記事を再録して、原点に帰ろうと思います。2度目の方はスルーして構いません。
前回は、「知の考古学」という雑誌の巻頭言から、この題名の由来について書かせてもらいましたが、今回は、立花隆さんの「エーゲ」(永遠回帰の海)(書籍情報社)からの引用になります。ページも列記します。
20年を費やして完成したカメラマン須田慎太郎さんとのコラボ本ですが、その序にイタリアのシチリア島セリヌンテ神殿群を前にして「突如として私は、自分がこれまで歴史というものをどこか根本的なところで思い違いをしていたのに違いないと思いはじめていた。知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料のなかに遺されている歴史。それらはすべてフェイクである。最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか」(45頁)「記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑み込まれてある」(46頁)
立花隆さん30歳のとき、地元の人も誰もいない遺跡群を前にして突如、湧き上がった感慨でした。自分たちの日常を考えればあたりまえのことですが。昨日のこと・現実はすべて表現はできない、表現するときは多くの何かを捨てている。数量化の比喩を使えば1%の現実を表現するのに99%の現実を捨てている。この繰り返しが歴史なのではあるまいか。
日常の暮らしのなかで、会社であれ、家庭であれ、事件のなかにも、捨てられたものがたくさんあって、そのおかげでいまの自分がいるのではあるまいか。記録されなかった現実の総体が、実は、意図的または気づきもなく捨てられた現実でもある。その人がそこにいるということは、そこにいない人を山のように抱えているのだ。歴史はそういうものを丸抱えしたなんだか分析なり、調理を許さない、歴史学を嫌う生き物に見えてくるのは、私の妄想だろうか。現代にも、現代だからこそ、見つめていい視点ではないのか。それが時代を超えて太古の人ともつながる早道、深いところで共感できる生活者の目のような気がする。
SNSでコントロールされる時代。
「言論の自由」,「表現の自由」は今やSNSで氾濫しています。銃でもペンでもなく,無害とも言えなくは無いですが,誹謗中傷,偽情報,脅迫,詐欺など実害も多いですね。或る国では統制のためにネット情報さえもチェックされコントロールされていると言われていますが,元々,ネットで飛び交う情報は機械的に分類され収集されているのでしょう。個人IPアドレス別の趣味嗜好や多用する言語や映像までは分類されていると思います。(共有PCや数台のPCで別々のIPアドレスを使用していたりすれば個人の特定までとは言い難いですが)言論も表現も自由すぎる現代の情報化社会では,偽情報に流されず,真実だけをセレクトするのさえ困難かも知れなません。我々よりも,むしろ成長期の子供たちに与えるSNSの影響のほうが心配です。マスコミもいろいろな形があるとは言え,少なくとも考査機能を経て世の中に出るマスコミ情報と,全く野放しのSNSとの違いが各方面で問題を引き起こす原因にもなっているのではないでしょうか。つい最近でもトランプ氏がロシアのホテルで複数の売春婦をハベらした映像か音声かの情報をロシア政府が押さえているとか?彼の弱みを握っていてロシアにコントロールされていると?噂か真相か?真実は不明ですが。これが真実とすれば「アメリカ・ファースト」にはなりませんね。
読み物もほとんどがフェィク?
ゴーストライターを使った例
小沢一郎 – 『日本改造計画』は当時の大蔵省の課長が編集長となり、政治の部分は御厨貴と飯尾潤、外交・安保は北岡伸一、経済は竹中平蔵と伊藤元重が担当した。
赤塚不二夫 – 漫画以外のエッセイなどの活字の仕事はほぼ全てが、長谷邦夫や高平哲郎や奥成達などのブレーンによる代筆。
荒舩清十郎 – 『ロッキード問題と五一年度予算』(政財界出版)は小野田修二に書かせたとされる。
五木ひろし – 最初のライターが書いたものにをクレーム出し、別のライターにきちんと取材をさせて新たに書かせたという。
江本孟紀 – 春日原浩をゴーストライターにして『プロ野球を10倍楽しく見る方法』を作成。
王貞治 – 自伝をゴーストに任せた。
大黒摩季 – 作詞クレジットが後に「作詞:ビーイングスタッフ・大黒摩季」となっていた。
金田正一 – ゴーストライターとの印税の配分で金田9:ゴーストライター1を主張した。
佐村河内守 -ゴーストライター新垣隆からすべての曲を代作しているとの告白があり、週刊誌を巻き込んで大きな騒動になった。
竹村健一 – 著書の盗作が指摘された際、ゴーストライターが書いたもので自分の責任ではないとした。
田中角栄 – 『日本列島改造論』など、官僚や秘書などをつかって書かせたとされる。
長嶋一茂 – 自伝『三流』は石川拓治の聞き書きである。
長嶋茂雄 – 自伝『燃えた、打った、走った!』は新宮正春の聞き書きである。
長門裕之 – 『洋子へ』が暴露本として騒がれると、ゴーストライターが書いたもので、原稿チェックもできずに勝手に暴露本にされたと説明。
林下清志(ビッグダディ) – 講演会で、著書は「自分で書いていない」と発言。
ひろゆき(西村博之) – 『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』は2ちゃんねる創設者のひろゆき(西村博之)名義で出されているが、あとがきでひろゆき自身が「ほとんど文章を書いてない」、「この本のほとんどを書いた杉原さんに感謝です」などとゴーストライターの存在を暴露している。ちなみにライターの杉原光徳の名前は目次の最後に「構成・撮影」の名目で記載されている。
堀江貴文 – 小説「拝金」と「成金」はゴーストライターの代筆である、と表紙絵を描いた佐藤秀峰が暴露。担当編集者や本人の口から聞いた事実で「小説の世界ではよくある制作手法で、何ら恥ずべきことだとは思っておりません」と編集者は言っていたらしい。堀江が最初に1000字程度の指示書を書き、それをもとにゴーストライターがあらすじを作り、お互いに意見を交わすかたちで作業が進められた。テーマやあらすじや人物などには堀江のアイデアが入っているが、文章はすべてライターが書いた。印税の取り分は当初、堀江6:ゴーストライター4が予定されていたが、堀江が「しっかり宣伝するから」と主張して7:3になった。その他の著書もゴーストライターが書いていることを公けにしている。たとえばベストセラーになった『ゼロ』は古賀史健が書いた。
松本伊代 – 自分の本が出た後に、テレビで「まだ読んでない」と発言?。どこまで天然なのか?
seto
昔は資料を集める仕事は、助手にやらせていましたね(山崎豊子など)。しかし
経済書・政治家やタレント、経営者の半分以上は(ほぼすべてかもしれない)
ゴーストライターですね。読み物ほとんどフェイクは本当です。学者の論文も
フェイクの可能性。実は助手やアルバイトにやらせた実験結果を盗み手柄にす
るわけですから。ゴーストライーも契約形態がいろいろあって生活は苦しいみたい。
書いたらそれで収入おしまいもあれば、売れればバック3%とか入るのも。アメリカ
の大統領にもライターはいますよ。オバマにもいました、若いやつ。それにしてもよく
調べましたね。音楽の世界にしろ、売れればいいですね。山下達郎クラスなら大丈夫
でしょう。
同じ穴のムジナ?。
僕もフェィク・ライターです。広告主のお客様すべての「丸投げ口原稿」から広告物を制作していろいろなメディアに掲出していますから。いかにも広告主のお客様の考えのようなニュアンスで制作していますからね。僕に限らず,広告制作に携わる人たちはみんな同じ穴のムジナです。