人生の目的はアタラクシア(こころの平安)を得ること?
ごく限られた目的にだけ無我夢中の自分はそんなに悪い時間の使い方ではないと現役時代に思っていた。〇月〇日の会議資料つくり、何日までの営業締切に間に合わせる、プレゼンテーションの用意、今月末日までに目標の売上数字を達成しないといけないとか。
しかし、その時間の使い方で一番おろそかにしているのは自分の心の中を探ってみることだ。たえず外側からの要求や評価に一喜一憂する毎日を、せめてある時だけ忘れたいと何度も思ったこともあるが、夢の中に仕事や嫌な同僚が登場してくる。気持ちが休まらない。理想的な休日は夢のまた夢。
「死はこわくない」(文芸春秋刊 立花隆)に、人生の目的はアタラクシア(こころの平安を得る)にあるとするギリシャの哲学者エピクロスの言葉を引いていた。エピキュリアンという表現で快楽主義とか誤解されてるけど、実はすべてこのアタラクシア・こころが平安になるための営みが、暮らしとか・生きることの目的になるんだという風に考えると、稼ぐのもほどほどに、心の平安を崩すほどのキツイ人間関係や仕事は避ける、そういう場面から逃げる生き方って大事な気がする。
黙っていても病はやってくるし(呼び寄せている)、子供でもいれば悩みが山のように押し寄せてくるし、親がいれば老化と病気に振り回される。妻がいれば口ケンカもあり、気が休まらない。安らぐのはトイレの中だけという人も多いのではないだろうか。街中でも新しいビルの清潔なトイレに入り、カギを掛けた瞬間の安堵感が人生の終わりまで続けることができれば、「わが人生に悔いなし」と叫べるかもしれない。
しかし、アタラクシアに入ったと思っても、実は突然、人生の中断もやってくる。死である。年齢を問わずやってくるが死にゆく人間も意識があれば辛いが、残された人間の方がもっと辛い場合が多い。知人が子供を3人残されて奥さんを亡くし、奥さんの両親と自分の母親と親と力を合わせて育て上げた。力尽きて今年本人も脳梗塞で死去した。一人っ子の彼は亡くなり、92歳の母親は健在であった。しかし、死への恐怖がある限り、アタラクシアへは到達できないのではと思う人もたくさんいるだろう。「あなたが死を恐れるとき死はまだ来ない。死が本当に来たとき、あなたはそこにいない。だから死を恐れる必要はない」(エピクロス)。筆者もそうでありたいと思う。
「人生の目的はアタラクシアである」と言っても、それぞれに置かれた具体的な人生シーンを見れば、何か虚しい響きがする人生観でもある。それでも、人生の意味や目的がわからないまま時間が経過してゆく。亡くなった親父に「人生の目的は」と聞いたらなんと答えるだろう?満州から引き揚げてきたからきっと「生きるだけでも大事業だよ」と答えると思う。「生きているから生きている。そこに理屈はない」「考える暇があるんだったらカラダを動かして働け」と。「ブログなんてやってないで、外で稼いでおいで」
自我爺さん。
歌手が人生を歌い出したら、大抵はそう長くない。自分の生涯を人生の歌で締めくくって一生を終える。実に見事だ。
もちろん、自作自演もあるが、他作自演もある。仕事の延長には違いないが理想的な生き方のようにも思える。しかし、自分に置き換えて考えれば仕事の延長で一生を終えられるかは不明だ。探し求めてもそんな道は見当たらないから、今日もとりあえず働く事にする。
昔の少年
病気と闘い立ち直る人も居れば、病気と共存しながら生きる人も居る。身体が不自由でも電動車いすで外出する人など見るにつけ、自分はまだ甘いと感じる。人の生命力は強く、簡単に絶える事はないが、精神は弱気になりやすく気力が失せて体力も無くし病を増幅させてしまうのだろう。しかし人間も動物の身体も、これほど精巧な精密機械でありながら長生きできるものは他に無い。時には医学の助けも必要とするが、例えば人間ロボットを作ろうとしても、これほど完成度の高いものは作れない。一時騒がれた、問題の細胞そのものが作れない限り。生き物は神が創造したとすれば、神は誰が作ったのか?そこまで突き詰めなければ、3Dプリンターなどで簡単に人や動物は作れない。
神が作ったのなら神に感謝したいが、その前に丈夫に作ってくれた亡き両親に感謝したい。
不良老人
目的など持っていない自分に気づいたのは、つい最近だ。死ぬために生きている現実を直視したくは無いが、まだ暫くの間は自由にしていたいと思う。生き方はいろいろあって、正しいとされる生き方は自分にとって多少窮屈すぎるので、少し羽目をはずしつつ生きているのが現状だ。とりあえず他人に迷惑が掛からないように注意しながら、今日も、羽目を少しはずそうかと考えている。
別人28号。
考えた事は大抵は実現するものだ。多少形は変わっていても完成時を見れば、過去に自分が思っていた通りになっている事が多い。大きな目的ではなく、目標でもないが、希望は意外に自分を導き、変えて行く事に最近気づいた。いいことも、悪い事も、過去に考えて居た「ディジャブ」?とか言う奴だ。すべては脳からの命令で生きて来たとするならば、その脳をコントロールしているものは一体?その脳の中にあるPCなのか?いや、自分自身も知らない目に見えない生物?いや分子?細胞?の形を借りた、もう一人の本当の自分が居るに違いない。そんなオペレータの自分が人体マシンの殻を操って生きているのだろうか。